私は絵具と戯れたいが、何を描いたらいいのか皆目わからない。
この前までは抽象画を描きたいと思っていた。
しかし抽象画はかなり技術がいると思う。
構成が行き当たりばったりだとよくない。
私には描く題材が見つからないのだ。
買ってあるりんごを皿の上にのせればいい。
しかし私はりんごを描きたいだろうか。
あるいは花を買ってきてなにかの器にいけてみるとか。
でも私が描きたいのは花なのだろうか。
わからない。
画架を買って写生に行くのもたいへんそうだ。
六義園の水道のところに
「絵具の水はトイレに流してください」
と札がさげてあった。
いきなり現地で本番の絵を描くのではなく、紙に風景をスケッチして、撮った写真と一緒に家に持って帰って描けばいいのか。
私は建物が好きだ。
水飲み場とベンチも好きだ。
写生となると椅子を持って行かなければならない。
しかしこれからの季節は熱中症で生命の危険がある。
世の中には、具象、抽象だけでなく、自分の考えた世界を絵として表現している人たちもいる。
私の心の中にそうした世界があるだろうか。
私の心の中には何があるのだろう。
怒り。
さびしさ。
よろこび。
配偶者。
音楽。
それらを絵にすることはできるだろうか。
InstagramやTwitterでアクリル画とかAcrylic paintingとか検索しているといろいろな作風の人が見つかる。
私は描きたいものを見つける前に練習が必要かもしれない。
でも必然性が見つかりづらいものを描く練習をしてもはかどらないだろう。
静物なら見ながら描ける。
心の中に何があるかという問いは私にとって大きい。
それを考えたこともなかったからだ。
ウインストン・チャーチルは一度失脚し、その不遇な期間を田園風景を写生することに費やしたという話もある。
なんでもいいから手近なものを描いてみようかな。
私が見たようにしか描けないだろう。
いや、見たように描ければすでに絵の先生だ。
描けるようにしか描けないのだ。
3色で描けるだろうか。
赤青黄ならともかく、ターコイズブルー、ウルトラマリンバイオレット、蛍光イエローではきびしい気もする。
しかし絵具を買う資金はない。
ないといいつつ世界堂に行きたい気持ちはある。
ほしい色を紙に印刷し、折りたたんでいつものサコッシュに入れてあるのだ。