きょう、朝にCTスキャンを受けてそのあと内診があり、最後に採血室で採血を受けた。
その病院は2年くらいで担当医がどっかへ異動してしまう。
きょう会った先生は全然知らない人だった。
先生は次回の予約を取る前に私を帰そうとした。
ほんとうなら次回は1年後でもいいのですが、ステージがIIIだったので、半年に1度のペースを続けますと言われた。
来年何もなければ卒業ですということだった。
採血室には8人の採血者がいて、驚くべきペースで採血をし続けていた。
それでも35分待ちだった。
私は264番の番号札をもらったが、採血されているのは180番台くらいの人たちだった。
採血の係の人からしてみれば、卒業間近な人、告知されたばかりの人、化学療法を受けている人、さまざまな人から検体をとっている。
入れ替わり立ち替わりそうした人が番号札を持ってやってくる。
そして自分の名前と生年月日を言う。
たいへんな数をこなしているからだと思うのだが、そこの採血の人は手順が上手だ。
痛くないし、内出血もしない。
私のばんそうこうには、ほとんど血がついていなかった。
私はその病院が好きだ。
外来だけで毎日1300人くらいの患者をあつかっている。
高度に洗練された手順を見ているのが好きだからだ。
そこを卒業するのがさびしい。
そこの近くに私が住んでいた親の家があるからだ。
でももうそこに母はいない。
そこは私の町ではなくなった。
沿線の店も風景もどんどん変わっていく。
電車の行き先も全然違う。
私がここにいたことさえも色あせるでしょう、かなしいけれど、
という歌詞が矢野顕子の曲にある。
もうとっくに色あせている。
話が横道にそれてしまった。
1日中人の腕や足首から採血をするプロがいる。
自動音声が番号を呼ぶ前に、その番号を声を張り上げて呼ぶ人がいる。
その人はその番号の人を正しい採血者のところへいざなったり、採血の順番がくる前にCTに呼ばれちゃいましたという人を欠番というか後回しにする旨を誰かに伝えたりしている。
その人たちのおかげで私は生きている。
その人たちはとった検体を絶対に取り違えない。
使った針は医療用ごみ入れに必ず入れる。
間違いが許されない世界だ。
私はもともと、いろいろな人がいろいろな働きをしてこの世界を構成しているという考え方が好きだ。
かごに乗る人担ぐ人そのまたわらじを作る人というようにだ。