映画『教皇選挙』 ネタバレ感想(本文の後に『モノノ怪 火鼠』のネタバレも含む)

四折
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公開:2025/3/23

 どろどろの人事政治を観に行くぜ!のつもりだったのに、あにはからんや。枢機卿に登りつめた男たちを引きずり込む/自ら飛びこむ泥地はあれど、それを越えてゆく物語だった。

 最初の方、亡くなったばかりの教皇から指輪を苦心して抜くシーンに、自分とピントが合う映画かもと思わされた。オッて感じ。力いっぱいに引っ張られたら指輪をしている方は痛いものだけど、死者だから痛みは感じない。狭い遺体袋に入れられても息が苦しくはならない(コンクラーベの準備中に閉所恐怖症の枢機卿を気遣う発言がありましたね、そういえば)。「世界一有名な人」が死によって物体となり、やや粗雑に扱われてしまうことに皮肉を感じた。現世優先。

 次第にローレンスは信頼できる語り手なのか?となりながら観ていた。だから故教皇の部屋に侵入して、彼のくすんだ眼鏡をみつめて嗚咽をこぼし、ようやく友を偲ぶ時間を持てたシーンで疑念から解放された。空位を長引かせてはならじと物語はすぐにコンクラーベに移ってしまったから(思えばタイトルも教皇の遺体を覆うように表示される。彼の死によって始まる物語)、いつ親しかった人の死と向き合えるのだろうと少し心配だった。そこも描いてくれててよかった。

 眼鏡の演出いいなーと思ったんだ。長年対面し、交歓してきた人の顔の象徴。それが埃か何かくすんでしまっている。もう眼鏡は持ち主を助けられず、持ち主は眼鏡を気遣ってやれない。自分も眼鏡ユーザーで、眼鏡を通して世界に触れているから、置いて行かれるしかない眼鏡による悲しみの演出にかなりグッと来てしまった(ちょうど先週『シャーマン・キング』のスピンオフ『マルコス』で本体の消えてしまったマルコの眼鏡だけを持って自身の結婚式の花道を歩いたメイデンちゃんの話を読んだばかりなのも相まって。眼鏡よ眼鏡)。

 画面が強いな!と思った1位は白い傘、緋色の上衣、白の法衣の同じ姿をした108人を上から映したシーン。傘が蓋となり区別が消えた枢機卿たち。さらに意地悪く言えば個性の剥奪だけれど、どちらかというと「一体化」だと感じた。時系列の記憶がもう曖昧なのだが、最後の投票に向かう場面じゃなかったっけ? とうとう票が決する、一つに集まる暗喩のようだった。

 2位は最後の投票の直前、割れた窓から外の風、外の音、外の輝きが入ってきて、皆が一瞬それを見上げるところ。閉ざして鎖してやってきた「伝統」が変わるよの宣言でヒュー!でした。

 オモロと思ったのはコンクラーべに結集する枢機卿たちがキャリーカート引いてたり、スマホをいじっていたりした場面。現代テクノロジー×伝統の恰好の組み合わせが好きで。こういうのは画で見せられる強みだなあ。枢機卿同士の立ち話が始まるとお付きの人がやや離れた場所で足を止める態度の上下の細かさも見てて面白かった。かと思えばバリバリにPC使って仕事をし、コピー機を巧みに使いこなせるのはシスター・アグネスなんですよね(ローレンスが機械使えないのが悪いという話ではありません)。

 不正行為の告発の食卓で(つーかユダの名前も出してるし、最後の晩餐モチーフで食堂?)、シスター・アグネスが我々シスターはあなたたちの目には入りませんがと決然と発言した場面、痺れましたね…。それでも神が創った目と耳がある。この発言はラスト、ベニテスの身体とも通じるもので、割り当て女性も、インターセックスの人も、「神が創った」のだ。自分はキリスト教的神は信じていないので万物創造説も放り投げてしまうが、この二人の台詞は神の創造を信奉する人々にこそ現実を響かせる配置だろう。あなたが神の御業を信じると言うのならば、「男でない者」を神が存在させる現実をしっかり見つめろと。

 ベニテスが晩餐の祈りをおざなりにせず(おざなりにして着席した数人が慌てて再び立ち上がる姿をわざわざ映す映画よ)、108人分の食事を用意してくれたシスター達の存在に言及した時の、シスター・アグネスの仕事への誇りを感じる微笑みもよかった。

 そう、ベニテス。宗教戦争だ!と煽動するテデロスの演説の後で、毅然と静かにあなた方は戦争を知っているのかと問うたベニテス。自分から「女性」を切除することは間違いだと決断したベニテス。投票の結果が定まり、しかしまだ外には周知されぬ時間の、ローレンスとレイの会話にはハラハラさせられた。そこから亀の登場まできつく指を組んで見守ってしまった。結果がひっくり返されてしまうのかと。クリニックの単語が出た瞬間にピンと来るものがあったので。まあジェンダークリニックだと勘違いしていたんだけど、そういう教皇の「正当性」でもって待ったがかかるんじゃないかと。

 物語はずっと教皇にふさわしい人物とはの話で、人には欠点があるからマシな奴を選べって展開で、しかしまずもってこの「ふさわしい人物」に女性はノミネートされてもいない。神に仕え、人に仕えるベニテスの人物像は、これまでの野心家候補者とは一線を画す。この人しかいないとのクライマックスで正当性を問う物語は最大の焦点を「性別」に当て、ひとで選び、性別では選ばないことを見せつける。

 というかここで「完全な男(クソみたいなことばだ)」でないことを理由に教皇就任を否定するとしたら、単に枢機卿たちの判断能力に問題があるってことになるだけですが。同じひとりを見る時に、男だから/女だからでその意思の軽重を量るのか? 同じことを言い、同じことをやっているのに、男でないから拒むのか? 為人とこれまでの仕事ぶりで選んだ人間を。もちろん彼らは枢機卿=教皇=男という大前提の上に立っているしあんまり下も見ないので、ベニテスの性別をちっとも疑ってはいないが(その人の性別を他者が疑うも何もないが)。その辺も諷刺なんだろう。

 そして亀! 教皇の寵幸を受けながら脱走したら轢かれるに任されていた亀を、最後にローレンスが棲家に戻してやるところがよかった。亀もまた「男でない者」だもんなあ。命が軽んじられていた。池の囲いも、車が走る道路も、亀には把握が難しいヒトのルールで成り立っている。教皇がベニテスを内密に枢機卿にしたのは、赴任地の事情もあれば、「男」ではなかったからだろう。枢機卿にふさわしくない部分を捨てさせようとした前教皇。亀を可愛がりながら生活の世話を徹底しなかった前教皇。安易に亀と女性を重ねて語りたいわけじゃなくて、それぞれ「世界一有名な男」に軽んじられていることが描かれていた事を言いたい。

 シスターたちが日差しの明るい外に出て軽やかにお喋りしながら去ってゆくシーンで終わったのが本当によかった。この変化は明るい先へと進むのだ。

以下、余談で『モノノ怪 火鼠』の話。

余談:ちょうど数日前に『モノノ怪 火鼠』を観ていて、共通する部分があったことも体験として面白かった。火鼠も次代の天子を産む家を決める政治闘争の話で、今権勢を振るおうと上に立つ人間なんか簡単に変わる本当に大切なのは生まれてくる子ども自身の命だと言い切る。文脈上は家臣団の権力の移り変わりを指すが、敷衍すれば天子という最高権力の家の否定とも受け取れる台詞だった。日本のアニメ(大きい主語)がそこまで言えるのか/言いたいのかは判断を保留するしかないが。

@yotsuori
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