ファミレスでアルバイトをしたことがある。数日だけだけど。
大学2年生の夏、ちょうどお盆の頃合いだった。高校の友人から、どうしても人手が足りなくてと頼まれたのであった。掛け持ちで蕎麦屋のバイトをしていたので「まあ、飯を運ぶくらいなら」とさほどためらわずに応じた。金がなかったからである。
どこにでもある、低価格帯のチェーン店だった。記憶に残っているのはその立地である。地元の駅前近くに、だだっ広い駐車場を備えているその店舗は、周囲からぽつんと孤立しているようであった。いくら田舎の駅前とはいえ、そんなに贅沢に土地を使うものだろうかと疑問に思う。
そのファミレスができたのは、私が中学2年生の頃であった。当時のことはよく覚えている。ファミレスができる前、そこは空き地だった。商店はおろか、家でも畑でもなかった。2m近いフェンスに有刺鉄線が巻き付けられ、そこに入らないように厳重に管理されている野っ原であった。夏になれば雑草がぼうぼうと生える、だだっ広い空き地。子供の出入りを防ぎたい気持ちはわからなくないが、いかにも曰くありげな障壁の様子は不穏さを感じさせた。そんなミステリアスな気持ちも、あっさり小綺麗なファミレスが立って台無しになったのだが、良い思い出である。
お盆の数日だけ、という約束であった。日当は割増されるという。店長は、疲れた顔をした細身のおじさんだった。ほとんど感情は乗らないが、返事をしてくれること、レジのお金は責任が伴うから自分がやると言ってくれたことで、まあ良い人なんだろうと思った。私をバイトに誘った友人は、夏風邪を引いて来なかった。もしかすると、仮病だったのかもしれないと後になってから思う。アルバイト中は、ほとんどこの2人で店を切り盛りすることになった。店長はキッチンとレジ、私はホール。
お昼頃になると、加藤くん(仮名)がやってきた。店長はいちいち説明しなかったが、加藤くんは一目で障害者だと分かった。雇用枠があるのだろう。加藤くんは皿洗い担当で、にこにしながら手際良く様々な食器を効率良く洗った。店長か加藤くんに優しかったのも、よく覚えている。無茶ってくらい忙しかったが、メンツはおおむね良かったと思う。ただし──
「1つだけ、まあゲン担ぎみたいなものなんだけれど」
初めての仕事の前に、店長はそう言った。それさえなければ、そのファミレスでアルバイトを続けても良かった、と今でも思う。
「17番テーブルはずっと予約席なんだ。ブザーの不調でね、たまに誰もいないのに呼び出しがあるから。そういうときは、変に見られないようにお冷やだけ置いといてね」
店長が『御予約席』のプレートを17番テーブルに立てた。それが、始業の合図だった。
直感的に、やはり曰くがあるのだろうと私は思った。ブザーを切ったり、そもそもそのテーブルにブザーを置かなかったり、いろいろ対策ができそうなものである。それをしないで(あるいは、したけれど無意味なのか)、まるで客がいるかのように扱う。奇異である。しかし私は所詮飛び込みのアルバイト、深々立ち入る気持ちはない。言われたとおりにしようと思った。
ピンポンと呑気な音で17番テーブルの呼び出しを受けたのは、初日の16時頃であった。店長が視線をよこしたので、私はお冷を持ってテーブルに向かった。1個で良いと言われたので、そのとおりに置いた。それだけであった。ハンディ端末を操作すると、頭上の表示器に明滅していた「17」はぱっと消えた。同じようにL.O.の少し前に、もう一度呼び出しを受けた。そのときは、お冷を交換すれば良いとのことだったので、室温に戻ったお冷をコップごと替えた。そのとき、蒸発したにしてはいやに水量が減っていると思った。使ってないコップを加藤くんに渡そうか渡すまいか迷っていると、加藤くんが「それ、洗った方がいいよ」と言ってひょいとコップを取り上げ、さっさとすすいでしまった。その日はそれで終わった。帰り際に店長は「全く問題ないよ。ちょっと変に思うかもしれないけど、よろしくね」と言っていた。尋ねるまでもなく、私の仕事ぶりではなく17番テーブルのことを言っているのだと分かった。
2日目は休日ということもあって激戦だった。ランチからディナーまで、店頭のベンチにずっと誰かしらが座って空席を待っているような有様である。それでも、例の17番テーブルは『御予約席』のプレートが下げられることなく、空席を保っていた。いや、午前の早い時間に一度だけ『呼ばれて』お冷を置いたのだった。店長も加藤くんも、そのテーブルに客を通すという考えは毛頭ないようであった。私も既に、そんなような気持ちであった。
19時頃になると、見るからにヤンキーの3人組がやってきた。下品で、誰も聞きたくないような話題を、誰もが耳を聾するような大きな声でがなり立てている。私は地元の出だったので、数歳年上の不良者たちであるとすぐに気付いた。中学校時から相も変わらずと呆れ果てていると、彼らは「あの席空いてるじゃねえか」と入口から身を乗り出して指さしている。やばい、と思ったが既に遅かった。トサカを立てた男が私に詰め寄り、「あのさあ、あの席空いてるっしょ。俺ら結構待たされてるんだけど」と少しドスを効かせてそう言った。私はうんざりしながら、「申し訳ありませんが、あのお席は御予約のお客様がおりまして」と応じる。もちろん、マニュアル通りである。
その後は、文章にするのも嫌なので想像してもらうほかない。とにかく罵倒され、怒鳴られ、店長を呼ぶことになった。店長の対応は毅然としていたが、結局ヤンキー達が勝手に17番テーブルに着座してしまったのだ。「おい、予約客いるなら今呼べよ」と3人の誰かが嘲笑したとき、店長は溜息をひとつつくと、少しだけ、諦めたように笑った。
「仕方ありませんね。御予約のお客様がいらっしゃった場合には退いていただきますよ」
それだけ言うと、くるりと背を向けてキッチンに戻ってしまった。私も後をついて行く。頑な、というほどでもなかったが、やけにあっさりと17番テーブルを開け渡したものだと思った。尋ねると、「いいんですよ別に。単なるゲン担ぎですから」と店長はまた笑った。釈然としなかったが、まあそういうものかと思い込むことにした。
ヤンキー達のテーブルマナーは最悪で、ワインもビールも飲み散らかして帰って行った。退店直後にバイクの音がしたのも、なんというか、品性の欠片もなくて辟易した。私は17番テーブルを平素より丁寧に清めた後、新しいお冷をひとつ置いたのだった。こうして、2日目の勤務は終わった。
3日目の勤務の話をする前に、地元紙の片隅に事故の記事があったことを記しておきたい。私の地元の程近くで、バイクが踏切内で立ち往生して急行列車と接触、バイクの運転手が轢死したというものであった。運行遅延により父の帰りが遅くなったこともあって、そうなんだ、と思った。特に死んだのが誰とか、運転手は酔っていた、なんてことは記事には書かれていない。しかし、私はどうしても連想してしまうのであった。トサカ頭のヤンキーが、エンストしたバイクから降りようとする。アルコールの入った身体は思うように動かず、たたらを、千鳥足を踏む。尻もちだってついたかもしれない。そうして、目の前いっぱいに急行列車の眩いライトが広がり──なんてね。
3日目の勤務は特に印象に残っている。17番テーブルにはいつものように『御予約席』のプレート。14時にピンポンと音が鳴り、お冷をひとつ置く。17番の呼出が消える──その時、またピンポンと音が鳴った。17番テーブルであった。はて、と思いもう一度新しいお冷を持ち、交換する。今度はキッチンに戻る間もなくピンポンと音が鳴った。
「えっ?!」
ピンポン、ピンポン、ピンポン、と連続で音が鳴る。全て17番テーブルからの呼出であった。咄嗟のことにフリーズしてしまう。ゲン担ぎ、というフレーズに絆されてしまっていたのかもしれない。その呼出には相手の明らかな苛立ち、はっきりとした悪意が滲んでいた。店長は片眉を上げてしかめ面をし、加藤くんは今にも泣き出しそうになっている。
「お冷はちゃんと運んだんですけど」
私が苦し紛れにそう言う。17番テーブルを見遣るのも、精神的な抵抗感があった。
「…………足りないのかな」
店長がぽつりとそう言う。そのままの足取りで店長は17番テーブルに向かうと、私が置いたお冷の向かい側に、もうひとつお冷を置いた。
「大変失礼致しました」
少し頭を下げると、17番のコール攻撃はぴたりと止んだ。ああ、と私は合点がいった。17番テーブルのお客様は、今日は2人でいらしたのだ。何度呼んでも、私がお冷を1つしか出さないものだから、怒ったのだ──では、今日になって来たもう1人は一体誰?
「……こわいね」
加藤くんがそう言うのに、私は頷くことしかできなかった。店長がキッチンに戻り、私に「今日はお冷を2つ出すようにして」とだけ言う。無理です、と言いたかったが、ここで辞めるのも怖かったので、結局その日もクローズまで働いた。
帰り際に店長から「もう今日でおしまいにするよね?」と尋ねられた。私はためらわずに頷いた。説明が何かあるのかと期待したが「ない」と言われた。この店にまつわる引継に、必ず17番テーブルのことは記載されているのだそうだ。内容も、私が聞いて、実行したこととほとんど一緒──たまに呼出がある。その場合、お冷をひとつ置く。そして、17番テーブルに客を通したとき、しばらくの間、お客様は複数人になる。それがなぜなのか、どういう由来なのかは分からないということだった。「想像はつくんだけどね、まあ確かめようがないし」と店長は結んだ。私は礼もそこそこに、ファミレスから逃げ帰った。
私の脳裏には、やはり厳重に立ち入りを封じられたフェンスが思い浮かぶ。入ってはいけないということだったのだろう。そして次に連想されるのは、お冷でいっぱいになった17番テーブルなのである。