冷笑文化から受容する文化へ変化してきているという意見を最近聞くようになってきた。
というか、Twitterでバズってる投稿を見て、自分がフォローしている界隈の人がそのことについて呟いているというだけなのだが。
具体的な作品などは見たり読んだりしていないが、確かに世間的にそんなような雰囲気(とは言ってもふんわりとした空気)を感じる。
ただ冷笑、露悪的なものは、そこまで悪いことだったのだろうかと個人的には思っている。
自分がかなり露悪的な人間であったというのもそう思う要因の一つではあるし、自分が否定された気になっているだけなのかもしれない。
冷笑、露悪的というのは、「誰にも顧みられることのなかった人間の悲鳴」だと思う。
お前ら誰も俺を助けてくれなかったじゃないか!お前らは全員汚い人間なんだ、この世界は汚い人間に溢れている。それを俺が教えてやる。そんな感じ
とても悲しい。
そんな中で私もずいぶん露悪的な態度を取り続けてきた。それは、先の大戦のせいで私の家がめちゃくちゃになったからかもしれないし、自分の将来を決めつけられ縛られていたからかもしれない。
自分が不幸になることで、親に復讐できるのだと本気で思っていた。
冷笑的、露悪的であることは暗く薄暗い人生を強いられた人間にとっては薬であり、治療であったはずだ。脈絡なく傷つけられた人間は、脈絡もなく他者を傷つけることでしか帳尻が合わない。
傷つけられるのはきっと悪い子だから、悪い子なんだから傷つけなきゃいけない。
それがその人や周りの人に良い方向に働くかといえば、全くそうではなかった。
最近、日本における戦争のptsdについての記事を読むことが増えた。
ようやくと言っていい程の年月を経て、議論に上がっている。
それ自体は喜ばしいにせよ、長い時間諸々の問題を家庭や個人に押し付けてきた事実は変わらない。
私たちは、「時間が解決するのを待つ」という血の通わない方法でしか物事を変えられなかったんじゃないかとすら思う。
時を経て景気が少しは良くなり、買い手市場から売り手市場に変わった。
私たちがマシになったのではなく、環境がマシになり慮る余裕が増え、冷笑的な人間は人口として減り、新しい人間が生まれ歳を取ったに過ぎないという意見はいささか冷笑的であろうか。
受容の世界を迎え世界は一体どうなるのか。
そんなことはわからないが、少なくとも次生まれる世代は今よりマシであろう。