朝の通勤時間に本を読むようにしている。
最近は「他者といる技法」を読んでいる。理解の過少と過剰の話があり、完全に理解されると私たちは自由を失うという視点が面白かった。確かに考えていること、意図が相手に全部筒抜けだと、アイデンティティが失われてしまうのかもしれない(自己が揺らいでしまうため)
最終章、296ページの言葉がとても好きだ
私たちは「わかりあおう」とするが故に、ときどき少し急ぎすぎてしまう。しかし、「わからない」時間をできるだけ引き伸ばして、その居心地の悪さのなかに少しでも長くいられるようにしよう
他者と側にいるためには限りなく理解することが必要だと思っていたが、もしかしたらそうではないのかもしれない。
理解することは、つまりは相手を何かしらの普遍的な型に嵌め込むということで、それは本来しようとしている理解からは一番遠いものなのではないかと思った。
理解できなくてもいい。
理解できないことを楽しみたいと思う。