「推し」
何年か前から、この言葉が流行り(?)はじめた事。
生活の彩り、支え、経済効果、お友達を増やすアイテム、わかりやすい自己紹介のような使い方までされはじめて今やかなり浸透しているようにみえる。すごくいい!世界が明るくなる!
その分、お気に入りを軽率に推せる環境が整ってきたので、今まで人生をかけて真剣にファン活動をしてきた人にとって「推し」という簡潔な2文字はアレルギー反応を起こす場合もある。わかる。とてもわかる。
でも、私個人的には、世間で「推し」という言葉が流行ってくれた事に少し救われてる。
なぜなら、人生のスタートから1人でそれをやっていた私に対して「(一部の)周囲が黙った」からだ。
私はただ「好き」と言って追いかけてただけなのに、現実が不幸な人、夢みがちな人、怒らせると怖い人、盲目な人、暗い人、果ては
「付き合えるわけないのにw」
的な事を平気で言ってきてた一部周囲が掌返しした(笑)。しかも今では推しの作り方まで聞かれるようにまでなった。「推しが作れないのが悩み」と。私、推しを作成した事なんかないよ?そんな方法あるわけない。
確かにね。私のこれまでの人生、推しがいない時期がなかった。物心ついた頃から誰かしら存在してた。
視野は狭くて基本一点集中型。そして期間も長い。こういうファンってのは、イコール狂信的なイメージを周りに与えていたのは事実。これは小さい頃から肌で感じていたので間違いない。
はっきり言う。
その部分に限ってはことごとく「見下されて」きたのだ。
付き合いたいとか、そんな事本気で思ってるわけなかろうが💢…と、いつもいつもモヤモヤしていた。たった1人を崇めてて何が悪い、たった1人を褒め散らかして何が悪い、自分ではどうしようもできないんだよ。(ああ、こういう事言うからか?笑)
だけどどこかで、やっぱり自分はおかしいのかな…他人しかも画面の向こう側の人だぜ?…私が人間的に弱いからなの?…という負い目もあった。これは自分の弱点、隠さないと!と、必死に顔に出さないようにしながら育ったら、やっと今、世の中が推し活に対して受容的になってきたのにも関わらず未だに隠してしまう癖が抜けない。防衛反応で体が勝手にそうしてしまう。
育ち方、間違えたね....。
(②へ続く)