(私はたまたまアカデミックな美術を学べる選択肢をとったけれど、それが重要だとは一才思っていません。絵を描く行為が自然なものとして受け入れられる場所が当時の私にはそこしか見つからなかっただけ。この話題が好きではない方は読まないことをおすすめします。私も、実はあんまり好きじゃない。)
就職したての頃、グループワークの発表資料に簡単な図解イラストを添えたら「ささっと描けて羨ましい!」「自分にはそんな才能がないよ〜!」と褒められた。でも、私からしてみれば、大勢の前でハキハキと資料を発表できる姿や、結論がまとまるように指揮をとってくれるリーダーシップのほうがよっぽど眩しいしカッコイイ。自分にとって「その場で描いたイラスト」は、チヤホヤされるためのものではなく、他の皆が提供してくれた価値に対するお返しであり、コミュニケーション方法でしかなかった。
物心ついた頃から落書きは好きだったので、学校でも黒板に絵を描いたり、クラスメイトの似顔絵を描いたりはやっていたけれど、笑ってもらえればそれでよかった。それが特技とみなされた途端、今度は周りに「将来は漫画家になるんでしょ」「美大にいきなよ」等と言われるようになる。悪気がないのは承知だが、ちょっと優れたところを見つけて「その道に進みなよ」と言えるポジティブな無責任さが苦手で無性に腹を立てていた。それと同時に、絵のおかげで友達とのコミュニケーションが良いバランスでできていた事にも気づいていなかった。
19歳の春、私は浪人していた。危機感ゼロのままヘラヘラと高校を卒業し、志望校にはセンター試験で足切りされ受験すら叶わず、ようやく自分が甘すぎたことに気づいて周りのマネをして予備校に通わせてもらった。そこで初めて、学校という箱庭とは異なる環境に一日中身を置くことになった。勉強が主軸とはいえハタチ前後の男女が入り乱れる空間には噂話もつきもので、面倒ごとに巻き込まれたりするうちに、私は社会不安を発症して家から外に出られなくなってしまった。言葉しかない場所でのコミュニケーションのとりかたがわからない、人がこわい、話したくない、見られたくない。ニット帽を深く被ってメガネにマスクで深夜に散歩するのが精一杯。勉強なんてとっくに手につかず、大学に通ったところでどうやって人と関わればいいのか悩む自分が目に見えていた。親に謝り倒して予備校も辞め、ただただ死んだ方がましだと思いながらこたつに埋もれて冬を越した。
春になっても相変わらずスリープ状態だった私を心配したのか、ある日母親が買い物に誘ってくれた。立ち寄った大型書店で手に取った、やけに古めかしい本。表紙には「鉛筆デッサン入門」とあり、面白さとは程遠い絵柄の箱やらリンゴやらがぎっしりつまっていた。絵なら自分もとっつきやすいし、何もしていない罪悪感を薄めてくれそうだという邪な思いつきで買ってしまった。小学生の頃に買いためたトンボ鉛筆を引っ張り出し、早速こたつの上に置いてある香水ビンを描いてみる。ガラス部分がうまく描けない。鉛筆削りはどうだろう……全然金属に見えない!清々しいほど描けないことで、かえってやる気が湧いてきた。本にはパースや反射光といった初めて見る専門用語が並んでいて、なるほどこういう『勉強』もあるのかとワクワクしながら見ているうちに、かつて友人が仄めかした「美大」のことを思い出した。こういう勉強をしている人たちとなら、なんだか臆せず話せる気がする。根拠なんてないけれど、大丈夫な気がした。
突然湧いてきたエネルギーに突き動かされて、私は美大受験の予備校を見学しにいくことにした。超大手のA、準大手のB、中規模のC。
Aは私の話を聞くなりすぐに歓迎してくれた。教室を見にいくと想像の数倍の部屋に生徒がぎっしり詰まっていて、少し圧倒されてしまった。次に向かったBでは、初心者であることや志望校について話したら笑われてしまった。世間知らずな自分が悪いことはわかっているけれど、勇気を出して見に行ったので傷ついた。軽くトラウマを抱えながらCに向かうと、応対してくれた事務員さんが「今まで勉強をやっていたのなら、それを絵に活かせばいいですよ」と言ってくれた。自分のことを個として見てくれたことに感激して、すぐに体験入学を申し込んだ。
予備校Cでの日々は、鉛筆の削り方を教わるところから始まった。私は昼間アルバイトをし、夜間のコースに通っていたため周りには年下の高校生しかいなかった、制服を着ていない私に何かを察したのか、友達はしばらくできなかった。
美術予備校の授業では、最後に『講評』をする。皆が描き終わった絵を壁に一斉に並べて、一つずつ講師がコメントをくれるシステムだ。ずらりと並ぶと壮観で、サボっているように見えた子が抜群にうまかったり、ぶっきらぼうな話し方の男の子が繊細な花を描いていたり、発見ばかりで大好きな時間だった。高く評価された絵の周りには皆が群がり、写真を撮りあったりして楽しそうで、輪の中には入れなかったけれど心の中で「あの絵のここが好き」「あの子と話してみたい」なんて思いながら、夏になるまで教室の隅っこで下手くそな絵を描き続けていた。でも不思議と不安はなかった。皆目の前の画用紙しか見ておらず、特段上手いわけでもない私は程よく放ってもらえていたから。息苦しかったあの予備校とは全く違う、天国みたいな環境だった。
転機が訪れたのは夏期講習。高校生も夏休みに入り、一日かけてデッサンするコンクールが行われることになった。くじ引きでひいた席は石工像の真横、顔は逆向きで全く見えない。ただ、窓から入った光が石膏像と壁のあいだからキラキラと漏れていてとても綺麗だった。このキラキラが伝わるように描いてみようと思い立ったら元気が湧いてきて、夢中になって描き続けた。
講評の時間になって教室に入ってみたら、自分の絵が2番目の位置に置いてあり周りには人が群がっていて目を疑った。「きれいなので写真撮ってもいいですか?」と初めて聞かれ、私の絵をみてモチーフがキラキラしていることが伝わったことに感激したと同時に、たとえ技術が拙くても表現できることがあるんだ、と余計な力が抜けた気がした。
その“キラキラの絵“は高校生たちによっぽど刺さったのか、急に話しかけてもらえるようになった。私も今まで心に秘めていた気持ちを伝えられるようになって、受験前には一緒に筆を買いに行ったり、ご飯を食べたり、泊まり込みで話したりするほど仲良くなることができた。話題も大抵は予備校のエピソードで、粘土で面白い形を作っては笑い転げたり、あの絵の具が高いとかモチーフが難しいとか、最後まで私たちは制作に打ち込んでいる目の前の光景について、全力でコミュニケーションしていて、その時間がたまらなく尊かった。かつては描いたものを周りに褒められたりする度「別に好きじゃないし」「私の全てではないし」とそっぽをむき続けていたけれど、結局絵に救われてしまったのかもしれない。
受験の日、くじ引きで座った席から見た石膏像は朝日の中で優しく微笑んでいて「綺麗にみえてよかった」とホッとしたことを覚えている。夏の日に見たブルータスの後ろ姿も、あんなにキラキラしていなかったら私は何を描けば良いのかきっとわからなかった。
大学の課題では、自分がやりたいことに応じて表現を選ぶことができたので、彫刻をすることもあれば、アニメテイストの絵を描くこともあった。スランプに陥って制作が進まなくなることもあった。それでも不思議とめげずにいられたのは、何かを作って発表した時に、そこから会話が生まれる心地よさに救われていたからだと思う。卒業間際、とある課題がどうしても終わらず深夜に校舎に忍び込んで作業をしようとしたら、同じくピンチになっていた同級生と居合わせて真っ暗闇の中作業をした。お互いあまり話したことはなかったのに「これも使えそうじゃない?」と道具を貸しあったりできるのも、それぞれの作品を見ながら4年間過ごしてきたからで、作ったものたちを言葉代わりにして、程よく身を隠して対話できる環境はとても居心地が良かった。
私は自分のハートを守ってくれた創作で傷つくことが絶対に耐えられないと思ったので、就職活動の際はそれは持ち込まないことにした。辛くなったら絵があるし、という最後のお守りとしてとっておくことにして、数年間は淡々と働いた。仕事する上でのコミュニケーションは、テーマや目標だけ見ていればいいのでなんとかやってこれた。
誰かに絵を見てもらえる環境に戻ってきたのも、仕事で疲れ果てた時に出会ったゲームの風景の美しさに感動し、ストーリーに想いを馳せたら止まらなくなって、たまらず絵を描いてTwitterに投稿したからだった。どこからともなく私の絵に辿り着いてくれた人たちが居て、色々な人たちが同じものをテーマにさまざまな解釈を発信しあっていて、なんだかかつての高校生たちと過ごした時間や、学生時代のことを思い出した。やっぱり、自分の言葉代わりになってくれる絵(あらゆる創作物)は欠かせないお守りのような、腐れ縁のような存在なんだと、最近になってやっと認めることができた気がする。
どうかこれからも描きたいものが現れてくれますように。見つけに行けますように。もし忘れてしまう時期があっても、どうせいつかペンは握るって、今なら確信できる気がする。