カチカチと時計の針の音が部屋中に鳴り響く。
その音が、生きてるってコトを思い出させてくれた。
そうして、深く深く眠っていた意識を覚ます。
私の体内に美味しい空気がいっぱい流れ込んでくる。
目の前のご馳走を我慢して溜まりに溜まったストレスが一気に晴れたかのような心地よさ。
そんな"生"を感じ取るのとは裏腹に、
…目の前は真っ暗で何も見えない。
私は確かに起きているし、目が覚めている。
なら、どんなに重くても瞼は開けるべきだ。
ーーーと、無理矢理開けようとして、
私の瞼が"何も見えなくなるようにしている"ことに気がついた。
…
状況が理解できない。
手…と思われる部位で顔に触れて探る。
まるで、私の瞼が縫合されているかのような感覚。
開けることを知らない。
4年前、私は気がついた時には入院していた。
不慮の事故に巻き込まれたと当時の先生が言っていた。
それから私は暗闇の中でひたすら孤独だった。
事故の影響で私の両目は閉ざされてしまった。
目を開こう、なんて心理は消え去っていた。
私の目は死んだのだ。
でも、最後にこの目が撮った景色は脳がぼんやりと覚えていてくれた。
虹のかかった空。それ以外は何も思い出せない。
私が入院して4年が経った。
暗闇の中で孤独でも、私の耳と鼻、そして口はちゃんと活動している。
いつもお世話になるのは、顔も知らない病院の先生と看護婦さん、たまに見舞いに来てくれる父母、そして、ツギハギだらけのように聞こえるピアノの音色だけだ。
どうしてピアノかって?
院内を移動していると、たまに聴こえてくるのだ。
ある日、車椅子に乗りながら看護婦さんに聞いたことがある。
「このピアノ、誰が演奏しているのですか?」
「ピアノを弾いてるのは貴方と同じリハビリをしている男の子よ。同い年くらいの。聞いた話だと昔からピアノが大好きなんだってさ。」
「そうなのですね。でも何故でしょうか、私にはこの演奏が上手にも下手にも感じません。」
「あはは、貴方は素直なんだね。でも私も言いたいことは分かる。その音色が綺麗に聞こえなくても、微かな情熱は伝わってくるもの。」
本当に笑っているのかどうか分からないが、その通りだ。
音だけで、奏者の感情が聞こえてきたから。
…。
それ以来、私は彼の奏でる音色に惹かれてしまった。上手くも下手でもない音色なんかにどうしてって思った。
気がつけば、私はピアノの音色を聴く為に彼のいるリハビリテーションルームの近くにあるベンチに通っていた。
これが真っ暗な私が持つ幸せの一部なのかもしれない。
ある日、私は看護婦さんに屋上に行きたいとお願いしてみた。
「あら、珍しいわね。別にいいけど、18時になったら施錠しちゃうからそれまでね。」
「ありがとうございます。ちょっと、外の風を浴びたくて。」
私はずっと室内で過ごしているから、風を全身で浴びたかった。
部屋の窓だけじゃ満足できなかったのだ。
私は車椅子に乗り、看護婦さんに連れられて屋上へとやってきた。
看護婦さん曰く、時間はちょうど17時、外は夕陽で真っ赤に燃えていた。
私は暗闇の中で生きているから、時間の概念や天気の変化なんてないようなものだ。
ちょっぴり冷たい風を体に浴びる。風を浴びていると暗闇が少し明るくなったかのような気分になる。
看護婦さんは「15分後に戻ってくる」って私を置いてどこかへ行ってしまった。別の患者の対応をしないといけないらしい。
車椅子にロックをかけられたので、私は動くことができない。
ただ、風を感じる、それだけ。
だったのだ。
後ろから見知らぬ足音が近づいてくる。
今屋上にいるのは私だけって看護婦さんが言ってたし、あまり利用する人はいないって聞いたのに、一体誰なんだろう。
その足音は、私の横でピタリと止まる。
「こんにちは、ちょっとお隣失礼しますね。貴方は目が見えないのですか?」
その声は男性のものだった。
「こんにちは。はい、私は仰る通り何も見えないので、ただ風を浴びに来ました。」
「そうですか…。ここ、僕のお気に入りスポットなんですよね。一番落ち着くんですよ。」
「えっ!そうだったのですか!?…でしたら、邪魔をしてしまってすみません。」
「いえいえ、ここに僕以外の人がいるなんてとても珍しいですよ。」
なんだか申し訳ない気持ちが晴れてくれないが、どうやら優しそうな人だ。
「もしよかったらなんですが、少し僕のくだらない話に付き合ってくれませんか。」
「えっ、はい。私なんかでよければ。」
見知らぬ人の話を聞くなんてほぼ初めてだ。そもそも院内で話しかけられることすら珍しかったのだ。
…と、彼が話し始める。
「僕、ピアノが大好きなんですよ。」
ピアノ…!?
えっ!?もしかして!?…なんてリアクションをしたくてたまらなかったが、ここはグッと我慢して彼の話を静かに聞く。
「僕はピアニストを目指していたんですが、実は前に心をひどく傷つけちゃいまして。僕の演奏が満足のいくレベルに達してくれない、何も成長しないって、自分で自分を傷つけちゃったんです。こうやって自分を傷みつければつけるほど、自分の弾くピアノ以外何も信じたくなかったんです。この世界は間違っているって、とにかく否定したかった。でも、やがてその否定は自分にも突き刺すようになって、限界が来たんです。だんだんピアノを弾くのが怖くなって、気がつけばこの病院にいたんです。」
「…。」
なるほど、彼は彼なりに努力家だったらしい。
「入院してからは、ピアノなんて二度と弾かないって思ってましたよ。ピアノの音色なんて一切耳にしたくなかった。でも、僕は少しだけ克服できました。どうやら、僕は誰もいない空間が意外と好きだったのかもしれません。偶然にも、この病院のリハビリテーションルームにはピアノしか置かれていない部屋があったんです。誰にも聴かれない音色には不思議と自信が湧いてくるのです。だから、僕は一人で弾き続けました。」
「今までは誰かが聴いてたんですか?」
区切りが良かったのでふと聞いてみた。
「はい、入院する前は必ずといっていい程、お父さんが付いてました。僕のお父さんは凄腕のピアニストで、とても頑固でした。僕はそんなお父さんみたいな凄いピアニストになることを夢見たのです。でも、お父さんはとても厳しくて、それは僕の高望みだったんだなって、思い知らされました。」
…。
「でも僕は夢を諦めたくなかったんです。折角積み上げた砂の山を"才能がない"の一言で一気に崩すのは嫌だった。そんな小さな気持ちとここのピアノが、僕の居場所なんです。」
正直、聞きたいこと、分からないことが多すぎる。
「でも、どうしてそんな話を私に…?」
単刀直入に聞いてみた。
「知ってますよ。貴方が僕の演奏を聴きに来ていたこと。」
バレてた。
「そもそも、少しでもピアノの音が漏れてしまうなら、誰かに聴かれるかもってことですからね。そこは承知していました。だからこそ、僕は貴方に感謝しているのです。」
…?
私、何かしたっけ?ってふと思った。が、続きがあるようだ。
「貴方がいなかったらピアノを弾き続けることはなかった。たまたま貴方と看護婦さんの会話を聞いちゃったんですよ。どうやら、貴方は私の演奏を評価してくれて、上手にも下手にも感じなかった、と。」
「なんか、すみません。私、割と正直者でして…」
「いえいえ、謝らないでください。その、上手にも下手にも感じないって評価に救われたんですよ。上手でも下手でもない、まるでどっちつかずの境界線を彷徨っている様。でもこれって裏を返せば何度だって挑戦できる。上手でも下手でもいい、自分の好きなように弾けって感じ取れたんです。だから、悲しいとか嬉しいとかではなく、安心したんです。」
「それは良かったです。私は見ての通り目が見えないので、耳だけが頼りだったんです。そんな時、ふと耳にした貴方のピアノに私は惹かれちゃってただけなんです。」
「それでなんですが、もし良かったら、今度僕の演奏を間近で聞いてくれませんか?今の自分ならちょっと自信があるのです。」
「はい、私なんかでよければ、是非!」
「ありがとうございます!…なんて話してたらちょうどいいタイミングだったみたいです。お迎えが来ましたよ。」
看護婦さんがちょうど戻ってきたらしい。
「では、もうすぐ屋上は閉まるので、そろそろ部屋へ戻りましょうか。」
そうして、私は部屋に戻されかけたが、聞きたかったことがあった。
「あっ、最後にすみません。もしよければ、お名前をお聞きしてもいいですか?」
「僕の名前は"上島 智"って言います。」
「ありがとうございます!私は_____って言います。また何かあれば、よろしくお願いします!」
「いえいえ、こちらこそありがとうございます。」
と、穏やかに別れを告げた。
何か大事なものを忘れている気がするが、今はどうでもよかった。
エピローグ。
ーーー「もし、私の目が見えるようになったら、智さんのお顔と演奏が見たいです。」
この夢が叶う日が来た。
私は今屋上にいる。屋上には、私と智さんの二人だけ。
真っ暗闇だった私の世界に、眩しすぎる光が訪れる。
「無理はしなくていいよ。僕は今、貴方の顔を見ている。」
私は外の世界を見たいという想いを込めて、固く閉ざした心の目を開けた。
ーーー。
真っ先に目に映ったのは、一人の男性だった。
それを見た瞬間の私には、何の感情も湧かなかった。
これが智さん?
やっと出会えた。やっと出会えたっていうのに、
ーーーどうしてこの世界は、酷く虹色に輝いているんだろう。
空の色も、屋上から見える街の景色も、屋上の床も、智さんの顔も。
なにもかもが虹色で塗られていた。
これが現実世界?
私の知ってる世界じゃない。
空は青くて、街は色とりどりで、屋上の床は寂しい白色で、智さんは綺麗だと思っていた。
それでも、声がする。
「僕のことが見えるかい?初めまして、_____さん。僕が、上島 智だ。」
その言葉を聞いた瞬間、私は泣いて智さんに抱きついていた。
目を閉ざしてまた逃げる気なんてなかったのに。
どうしてなのか。
目の前に会いたかった人がいたのに。
どうしてなのか。
ーーー私の心はぐしゃぐしゃに虹色で塗りつぶされてしまった。
目に映る景色は涙で潤って滲んだ絵の具みたいになってしまった。
私が泣いているのは、智さんを見ることができたから。
ではなく、
世界がこんなにも汚いから。
でもなく、
ーーー私の両目は4年前の事故で死んでしまったから。
智さんも泣いてぐちゃぐちゃな私を優しく抱き返してくれる。
あぁ、智さんの目に映る私って、どんな色をしているんだろう。
…。
4年前、私は気がついた時には入院していた。
不慮の事故に巻き込まれたと当時の先生が言っていた。
それから私は暗闇の中でひたすら孤独だった。
事故の影響で私の両目は閉ざされてしまった。
目を開こう、なんて心理は消え去っていた。
私の目は死んだのだ。
でも、最後にこの目が撮った景色は脳がぼんやりと覚えていてくれた。
虹のかかった空。
そして、
虹色に"塗られてしまった"、私の世界。