ほんのはなし
流浪の月は、歪なようでまっすぐな、脆いようで折れない、ふたりの人間関係のものがたりだ。
更紗と文は、安心して帰れる場所がなくて、こころに傷を負ったもの同士だった。けれど生物学的性という壁で分たれていて、出会いは9歳と19歳だったふたりは、「世間の目」によって「誘拐事件の被害女児と、加害者の小児性愛者」という理不尽に罰せられ、永遠に消えないデジタルタトゥーが掘られてしまう。世間の目は、増悪や好奇に留まらず、善意や同情、という形でもふたりを蝕み続けるし、社会生活を送り続ける以上、この目から逃れることはできないのだろう。
不器用に繋がり合おうとするふたりの間には、実際に最後まで、恋愛感情も肉体関係もなかった。
『これ以上なく切実に必要としても、わたしは文とキスをしたいとは思わないし、ましては寝たくなど絶対にない。文とはただ一緒にいたいだけだ。そういう気持ちにつけられる名前が見つからない』
更紗は、文のことを「切実に好き」だという。「わたしがわたしでいるために、なくてはならないもの、みたいな」とよぶ。ふたりの関係が両片思い(あるいは共依存、といえるのかもしれない)であったことは、四章で明かされる「彼のはなし」の独白でも明らかになる。
「今日はひとりで本を読みたいんだ」という、文の言葉に対して、小学生の梨花ちゃんが答える。「読めばいいよ、わたしはアニメ観るから」
「ひとりで、という部分については?」
「みんな、それぞれ、ひとりで、好きなことしよう。同じ部屋で」
「じゃあそうしよう」と、夕飯は、それぞれ好きなものを買う。ドーナツと唐揚げといちご牛乳、お蕎麦とフレンチフライ、お寿司とチーズ。レジャーシートに食べ物を広げて、山盛りのフレンチフライのディップはハニーマスタードとアイオリソース。
三人は家族ではない。恋人同士ではない男女と、二人のどちらとも血の繋がりのない小学生の女の子。このとき、どこまでも自由な空間に、自由な関係の三人がいた。
「どこか遠いところにいきたいなあ」
「遠いところって?」
「誰もいないところ。常識とかルールのないところ」
「無人島?」
「いいわね、無人島、最高」
「けど無人島にはアイスクリーム売ってないよ」
「島には小さな舟があるの。それで買い物にいくから大丈夫よ」
「アニメは観られる?」
「観られるわ。人はいないけどワイファイは通ってるの」
そんな都合のよい無人島があればぜひとも行きたいものだ。でも、そうしないのはなぜだろう。「でも、やっぱり、ひとりは怖いから」
『ひとりのほうがずっと楽に生きられるのに、やっぱりひとりは怖い』
ひとはどこまでも「社会」に縛られるし、自由を手にいれるということは、何かを失うことでもあるのだ。
つかのまの幸せかもしれない。それでも、物語の最後に心安らぐ居場所と、ひとりの理解者を見つけられたふたりのその後に幸あれ、と願いたくなるお話だった。
じぶんのはなし
ぼくは大人になるまで、ファーストフードをほとんど食べたことがなかった。
高校には半年ほどで通わなくなって、一年でやめてしまった。二年以上、ほとんど人と会うことなく、新聞配達をしたり(これはすぐにやめてしまったけど)、映画館でひとり映画をしたり、図書館に通ったりして過ごした。
あのとき、決定的に「朱に交わる」必要がなくなった日々をすごして、今でもずっと「多くの人がする常識」は、「ぼくの中の非常識」なのかと疑う瞬間がある。
ものがたりの中では、語り手の更紗が実の両親のもとにいた頃は、「夕飯にアイスクリームを食べる」のが常だったけれど、それは世間の非常識だった。(このものがたりの中で、夕飯のアイスクリームは自由の象徴でもあった)。レールから外れていく日々は、閉じた世界の居心地の良さと引き換えに、開かれた世界の生きにくさを感じる日々でもある。
最近になって、いろいろな世界や価値観を知りたい(体験したい)という欲求が強くなっている。ライブ帰りの21時頃にマックに寄って、生まれて初めてグラコロを食べた。なんとなく罪の味がしたけど、たまにはこういうのも悪くないな、と思いながら最近は生きている。
二十歳を過ぎてもほとんどお酒を飲まなかったけど、大学四年のときに付き合いで飲むお酒の楽しさを知って、最近は一人で飲むウィスキーも美味しいと思えるようになった。
いろいろ落ち着いたら、タランティーノの「トゥルー・ロマンス」を観て夜更かししたい。しゃれた犬のラベルが貼られたボトルのスカリーワグを用意して、ロックグラスと一緒に、ちょっと高いアイスクリームを頬張りながら。