光【ひかり】
①ひかる。てらす。ひかり。あかり。かがやき。
②かがやかしいこと。ほまれ。名声。
文劇7は《光》の物語だ。
それは希望のあるストーリーという意味でも、板の上に積まれた尋常じゃない照明の量という意味でも。
敵も《光》の武器を使うこと。
個人的に文劇7で興味深かったアプローチはこれだった。ライトセーバーや光の球などシリーズおなじみの武器に加え、侵蝕者の大きなシルエットが志賀を襲い、逃げる文豪たちをサーチライトが舐め回し、極めつけ多喜二が閉じ込められている有魂書の門番が使う武器はなんとどデカいレーザービーム。直進する光の太い筋は直視すると目が眩む光量で(対啄木の、右、左、真ん中、後ろと避けるゲームのボス戦のような演出が面白かった。もしかしたら吉谷先生がゲームミュージアムの演出に関わっていらっしゃるのも関係あるのかもと邪推したりもしたが)、客席の空間を削りながら縦横無尽に這いずり回る。
多喜二の有魂書内の敵は徹底して《光》もとい照明のついた武器を使用している印象を受けた。もちろん演出としての映えの問題かもしれない。あくまで私の身勝手な深読みだ。と、先に断っておいたうえで話を進めようと思うが、
生前、労働者の味方としてプロレタリア文学に従事した多喜二。
志賀との書簡の読み合いのやりとりが心に響くオープニング。彼を弾圧せんと覆い被さる有象無象の侵蝕者を跳ね除け、「文学は武器だ!」と刀を片手に立ち上がる姿は、多喜二の決意そのものだ。
と同時に、当時の基準で彼の文学を見てみるとどうだろう。彼がか弱き民衆の声を拾い集めて書いた作品は、厳しく不条理な検閲で黒く塗りつぶされた。
「残った部分こそが《光》」であり、
「多喜二が魂を込めて書いた部分こそが《闇》」。
であったのではないだろうか。
ここで過去作の話に寄り道しようと思う。
私は2020年に文劇3を初めて観劇したとき、「文劇3を地獄だと言える世界でよかった」と心から思った。
令和のいま観ると狂気じみて感じる劇館長の言動も、ほんの数十年前の日本では正義だった。そんな考えは間違っていると指摘すれば、たちまちそれこそ獄中で命を散らさざるえなかった多喜二と同じく制裁を食らわされたかもしれないし、多くの文豪が直面したように発禁処分、箝口を強いられたかもしれない。そもそも情報統制下では間違っているという考えにすら辿り着けなかったかもしれない。
その時代時代の正しさを《光》と仮定するなら。多喜二の有魂書を蝕み、転生後もなお多喜二を檻に封じ込めようとする者たち――侵蝕者、そして前生の彼を死に追いやった人間たちこそが、当時の規範においては《光》だった。
また、文劇6では、有碍書内で仲間とはぐれた中野と徳永が灯したランプを目印に、白秋が暗闇から現れるシーンがある。
「その灯(ひ)が、僕をここまで導いてくれたのだよ」
ここだけ切り抜いてみればランプの灯りは仲間を引き合わせてくれた希望の《光》のように思えるが、文劇6に登場する北原白秋は文劇3の劇館長が化けたものであるということ。このあとの展開を既にご存知の方にはとってはお察しの通りであるし、合わせて戦時中、不用意に暗闇の中で目立たないように国から灯火統制の発令が成されていたことを思うと、「暗闇の中に灯る《光》」の意味合いが若干違って捉えられるだろう。
多喜二の有魂書に巣食った侵蝕者たちが扱う《光》は、光は光でも、検閲によって国民が真実に触れる機会を奪い、国の名のもとに反逆者を嬲ることを許可された「栄光」の《光》だ。
それを証拠に、侵蝕者の《光》は文豪たちのことを救わない。監視し、執拗に付け狙い、炙り出し、突き刺し、身を焼いて黒く焦がす。
《光》だから良いわけではない。《光》だから人を救うわけでもない。人を傷つける《光》もある。
文劇7は場面切り替えなど演劇のルールとしての暗転を除いて、かなりこだわりをもって徹底的に舞台上から光を絶やさないことを意識されていた舞台だったように思う。場面としては《闇》に紛れながら多喜二の元に向かう志賀と啄木のシーン、心情としては多喜二が弾圧された過去を思い返すシーンなど光量が落とされていたシーンはあったが、
「どんな絶望の中でも光はある」
志賀の台詞通り、文劇7内で白樺派、とくに志賀はどんな絶望的な状況でも《光》を失わなかった。侵蝕者に磔にされ、門番に体を切り刻まれ、命尽きる寸前まで追い込まれてもなお。
白樺派と新文豪たちも《光》ならば、侵蝕者側も《光》。文劇7はまるでオセロゲームの白と黒のように表裏一体な《光》と《闇》の、《光》の面を奪い返す話だったのではないかと思う。
同時にそれは前世で多喜二を救ってやれなかった志賀が、転生後の多喜二におまえこそが《光》だと、手を差し伸べるチャンスを得る夢の話でもある。
《光》は、眩しさで弱者の目を潰すためにあるのではない。
《光》は、国を護るというほまれに目をくらますためにあるのではない。
「闇があるから、光がある」
「どんな絶望の中にも」
「人は一筋の光を見出す」
「俺達を絶望の闇の中に封じ込めておくのが望みだろうが」
「光ある方へ導くことが」
「「「「「俺達、文学を紡ぐ者たちの意地だ!!!!!」」」」」
《光》は絶望に囚われた人を出口に導くためにある。それこそが、小林多喜二の有魂書の《光》だ!
もう一点、《光》について文劇7で興味深かった点をお話できればと思う。
「僕たちにとっては負の感情も大切な感情なんだ!」
自身の書いた「善心悪心」を侵蝕された里見の叫び。前生で作中で志賀をモデルにした登場人物を酷い目に合わせたことから志賀と絶縁騒ぎになった過去=負の感情がある。
過去作文劇5では負の感情を燃料に小説を書く久米正雄が批判気味に扱われていたが(久米本人の態度にも問題があったので負の感情のみが批判対象ではないが)、「強い光があるところには影が出来る」という劇中の台詞どおり負の感情――《影》はこれまで、基本文劇では「無くすべき」もの、もしくは因縁を持つ人間同士腹を割って話し合うなどし「解消されるべきもの」――浄化されるべきものと扱われていたように思う。
しかし文劇7は、
「負の感情は負の感情のまま、大切に置いておいてもいい」
と里見に言わせた。文劇内での《光》の対義語が《影》ではなくなったのだ。
私は上記の里見の台詞を聞いた瞬間、「文劇は新しいフェーズに入ったんだ」と心底痺れるような気持ちになった。
パンフレットの脚本・なるせさんと演出・吉谷先生の対談で吉谷先生が「文劇1~3は太宰のターン、文劇4~6は新衣装(覚醒)のターンだった」と仰っていたが、ゲームでも河端先生のノベライズで徐々に侵蝕者のことが明かされていっている途中でもある。エピローグでも触れられていたし、もしかしたら今後、文劇でも今まで重ねてきた文豪と侵蝕者、《光》と《影》という対比からさらにもう一歩進んだ、文劇なりの侵蝕者や負の感情の新しい見解が出てくるのかもしれない。
大変なわたくしごとで恐縮だが、京都公演23日楽日に演出の吉谷先生とお話することができた。
2017年にミュージカル王室教師ハイネの配信を観て衝撃を受けて以降、観れる範囲で生観劇・配信で吉谷先生が演出されている舞台を拝見しつづけていた身としては、正直えげつない緊張で到底話しかけたりできないと諦めかけたしお話させていただいている間も恐らく挙動不審だったし、終わったあとはリアルに震えた足が指で弾いたときのカリンバのようになっていた。
が、勇気を絞り尽くした結果、「五年前に吉谷先生の演出をきっかけに文劇に興味を持ち、それがきっかけで文豪とアルケミストのゲームを始め、自分の文アルの歴史は文劇の五年と共に歩んできた。文アルと出逢ったおかげで、そのあとの五年は人生が変わったように思う」とお伝えすることができて、嬉しかった。
五年の節目に、7回同じ「文豪とアルケミスト」というタイトルのもとに行われた演目にも関わらず、今までの評価や手癖に甘んじず、制作陣もキャストさんたちもチャレンジ精神に満ち溢れている文劇7という舞台を観ることができ、吉谷先生の演出を好きなものとして、文アル/文劇を愛するものとして本当に幸せだと改めて感じた。来年の5月には文劇8の幕が上がる。新シリーズの二作目として、文豪は誰が来るのか、どんな新展開、情報が待っているのか。情緒を狂わされる日々が心から楽しみである。
それでは最後は劇中の好きな武者小路の台詞で締めよう。
「志賀がいなかったら、僕は文章を書くこともなかった。悠々自適な貴族の生活で、こんな苦しみ味わうこともなかったんだ、って。
だけど同時に感謝もしてるんだ。こんなにも最低で最高の人生を一緒に歩き続けてること、志賀が二度も留年しなかったら、志賀に文章を褒めてもらえなかったら……こんな人生、味わえなかったんだって!」
感想文と銘打ちつつ感想文にもなにものにもなっていない、ただただ長々とした文章をここまでお読み頂き、誠にありがとうございました。
感謝感謝、圧倒的感謝。
※こちらの文章はあくまで個人の主観に基づいた感想であり実際の舞台内容、史実と異なる場合が多分にございます。また、考察でなく感情なので真偽は不確かです。ご自身の持つ感情と私のそれが異なった際は、ぜひご自身の感情を信じてください。
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