食べるという行為は、生命そのものだ。
だからこそ空腹を満たす選択をとるとき、そこには「死なない」という決意が発生している。生きる、ではない。死なない、である。命を延ばす。たとえ精神は絶望の底にあっても。死なない。泣きながらでもメシを食う。悲しい。こんなときでもアイツがくれたメシはうまい。死なない。悔しい。腹を満たす。虚しい。それでも。死なない。死なない。死なない。死んでたまるか。
好敵手フランスとイギリスの二国の確執が中心だった、ミュージカル「ヘタリア~The glorious world~」(以下ヘタミュGLW)。以下、原作未読の演出の吉谷先生ファンの感想を綴っていこうと思う。世界史の知識も皆無のため、さまざまなところが間違っている可能性があるがご了承願いたい。
■目次
気付いた時には背後に死神が立っている舞台、ヘタミュ
「食わせる」暴力、「空腹を満たす」愛
カレンダーにまるかいて、来年
1. 気付いた時には背後に死神が立っている舞台、ヘタミュ
現地自体は8月の大阪だった。私事で恐縮だが観劇当日が誕生日であったため、森ノ宮ピロティホールは私の誕生日パーティ会場であり、我こそが会場一のアニバーサリーパーティ野郎だと思っていた。イギリスとフランスの結婚式が始まるまでは。
まさかこっちがご祝儀払う側だったとはね……。
冗談はこれぐらいにしておいて。
ヘタミュは本当に楽しい舞台だ。
イギリスとフランスの結婚式は、Xの有識者の方のポストで実在の出来事のメタファーと知った。わけありな花婿と花嫁、参列客や神父を巻き込んでのドタバタ結婚式だなんてここだけで喜劇一本作れそうな骨太なシチュエーションである。アドリブも信頼観あってこそで、観客として見に来ていた中国とスペインすら取り込むアメリカとオランダの胆力の貪欲さよ。
また冒頭の赤子のイギリスと若かりしフランスの出会い話はまだ世界全体が未熟だった頃のやりとりらしく、すべてが漠然としていて愛おしい。
「誰も見たことない景色が見れる!」
「なんだよ、誰も見たことがない景色って」
《丸くて摩擦の起きない、やさしい世界》。古代ローマが辿り着けなかった《夢》を分かち合う若いイギリスとフランスには、まだ彼らを「彼らのかたち」のまま保てる、のどかさとおおらかさがあった。
だが、時代とともに国民が抱く《夢》の解像度はどんどん上がる。国の擬人化である彼らの器の中身には、国民という細胞がみっちみちに詰まっている。
世界の頂点を見るとは、どういうことか。ゆたかな食料を持つこと。最強の軍隊を持つこと。富を持つこと。国の器を作る人間たちの《夢》はどんどん膨れ上がる。耐えられなくなった国の器は壊れ、内側から溢れ出す。または押し拡げられた結果他国との摩擦が起きる。一国でも多く「弟」を持つこと。一人でも多く、敵を殺すこと。
第一幕の最後、古代ローマの《夢のたまり場》は無情にも赤い炎で燃やされつくす。GLWの雑然としつつも気品のある舞台セットが大好きなのだが、演劇という媒体だから見目に大きな変化がないだけで、史実では「この美術品たちは燃やされて灰にされているのだ」と思うと心から悲しかった。崚行くん演じるイタリアの悲痛な「燃える、燃えるよお……!」の悲鳴が虚しく響く。
コメディとシリアスの落差が大きいことに定評のあるヘタミュだが、喜怒哀楽がハッキリと区分けされているわけでなくおもしろい悲しみもあれば悲しい笑いもあるのがすごくリアルだ。
コメディとメロディ、手練れのキャスト陣のアドリブでげらげら呑気に笑っている隙に、死神は大鎌を構えて私たちの背後に躙り寄っている。だからときどきゾッと肌をさかなでる一瞬の違和感を、私たちは見落としてしまう。前半のお遊戯会のような国同士のやりとりの最中にも確かに「国」は動いていたのだと、気づいた時には死神の刃は国たちの首にかかっている。そして当然、観客であり、国民でもある私たちの首にも。
ヘタミュは本当に楽しい舞台だ。
そして本当に恐ろしい舞台だ、とも思う。
2. 「食わせる」暴力、「空腹を満たす」愛
第二幕序盤から、まるで世界地図の端を真夜中につけたように、社会情勢はじわじわと闇に侵食されていく。フランスと破局したイギリスは弟探しに躍起になり、アメリカを弟にする。イギリスとの仲を復縁できると信じていたフランスはアメリカに夢中になっているイギリスの姿に傷つき、イギリスを倒さんと根回しに燃える。
新しい弟と共に頂点に上り詰めんとしていたイギリスはフランスの策略にはまり周辺国にも見捨てられて敗戦、大切に育てたアメリカにまでも独立され孤立。フランスはフランスで、「愛して」いる弟たちが秘密裡に自らのもとから逃げ出す準備を進めているのに気付かない。
――やっぱり料理って、自分のためじゃなくて、誰かのために食べてもらったほうがいいんだね。
自国の料理を食べるアメリカに、かつてのイギリスを想い出すフランス。
「絶対許さねえからな、なんで、こんな美味いんだよ……」
個人的にヘタミュGLWで名シーンとして挙げるとしたら、舞台でひとりで泣きながら、フランスから差し入れられた食事を泣きながら食べるイギリスのシーンを選びたい。
国としてのプライドがある。フランスから振る舞われたメシを食うぐらいなら飢えてもいいという意地。でも、国が飢えるということは細胞である国民が腹を空かせているということだ。
空腹にふらふらになってでも、何か裏があるとフランスの心遣いを突っぱねるイギリスに、フランスはハッキリと言い放つ。
「だったら、召し上がれっつーの。ちっとはまともな料理を食べて、今度こそまともにぶつかってこいっつーの」
カナダからフランスのまっすぐな本心を聞いたイギリスはフランスから振る舞われたメシを食う。複雑な感情をすべてふきとばす「料理がおいしい」というシンプルな感情。廣瀬さん演じるイギリスの、料理を口に入れた瞬間の緊張感がほころぶような表情に胸が締め付けられた。
はじめてフランスと逢い、料理を振る舞われたあの日から、器も、細胞も、情勢も、すべてが遠いところに来てしまった。お互いに傷つけ合いもした。
でも、フランスはイギリスに生命の皿を差し出す。死ぬな、イギリス。国を動かすエンジンを底尽かすな。「誰かのために料理を振る舞うこと」が愛の表現であるフランスであると誰よりも理解しているイギリスにとって、どれほど心強い信頼のメッセージだったろう。
だからこそ、涙を流してでも、悔しくて許せなくても、「いつものイギリス」に戻るために皿に食らいついた。死なない覚悟とともに。
フランスが帰国して同じように「弟」たちに料理を振る舞おうとすると、プロイセンを先頭に各国に独立を言い渡される。同じひと皿でも、空腹だったイギリスにとっては「美味く」、家族として無理やり振る舞われていた分に関してはつねに胸焼けがするひと皿だったであろうことを突きつけられるのが辛い。
イギリスがフランスではなかったから、フランスの「愛」はイギリスの空腹を適切に満たしたのだ。
フランス対プロイセンのシーンで「一緒にご飯を食べた……」と言いかけたフランスに「お前に決める権利はない!」とプロイセンが言い返すのが良かった。料理を食べさせるというのは愛でもあるが、口にしたものに対する内部からの侵略行為でもある。
舞台上で寝転がって、一人すすり声を上げる寿里さん演じるフランスの美しさよ。喩え感情がバラバラになっても、彼は美の国の化身なのだなとぐっと来た。
そして、満を持してイギリスはフランスの前に現れる。フランスのひと皿のおかげで死ななかったイギリスが。今度はフランスに死ぬなと言いに。
ロシアが持ち出した事故とはいえ、ここでイギリスが差し出すのが、彼のひと皿ではなくてイタリアとのやさしいやり取りのなか復刻したグロブスなのが本当に良い。
《丸くて摩擦の起きない、やさしい世界》。
「さあ、理想の景色をお兄さんと一緒に見てみないか?」
あのころ、指差す先に見えていたのは各国を蹴落として見る残骸の上に立った先の景色じゃなかったはずだ。彼らが長い年月の中で忘れてしまうときもあった原点を、イギリスはフランスに思い出させる。彼らは後に滅びゆくことが定め付けられているプロイセン(そして後に生まれるドイツ)と、新ヒーローであるアメリカに敗けてしまうが、背中合わせで語りあうシーンはどこかさっぱりとしている。
プロイセンが言っていた「イギリスとフランスが見た一番いい景色」は、もしかしたら一番高いところから見下ろした景色ではなく、いつでも戻れる原点のことなのかもしれないなと思ったりした。
最後、誰かのお腹の音が鳴る演出も粋だ。このあと、きっと国のみんなで食卓を囲むのだろう。食べるのはロマーノのパスタだろうか? わちゃわちゃとした空気とともに、ヘタミュは国擬人化コメディの世界に戻っていく。背後に立っていた死神は、もういない。
3. カレンダーにまるかいて、来年
最後に、主役二人の演技と、演出に触れて締めたいと思う。
■フランス:寿里さん
常に美しい。先述もしたがすすり泣く姿があまりに美しく、フランスの高貴な振る舞いは、寿里さんという器の美しさがあるからこそ成り立つのだと感じる部分が多々あった。この美しさというのは単純に見目の美醜の話ではなく、例えば石を削り出すために振るうノミの荒々しさとか、庭の調和を保つために植物を切り刻む残酷さみたいなものも含めた美であると思う。
■イギリス:廣瀬大介さん
私は舞台に立つ廣瀬先生が好きだ。廣瀬先生がこの素晴らしい舞台に立ってくれてよかったと心から思った。8月大阪で見たときは幼年イギリスの声を裏声で作っていたけれど、配信だとベース寄りの声に戻していて少しほっとした。上述したが、悲しいなかでも笑ってしまうとか、そういう「生きている」表情ができる俳優さんだと思う。繊細でどこまでも入れ込んでしまう彼にとってなにかを演じることは負荷がかかってしまうことだと分かっていても、再び圧倒的な輝きを見たいと願ってしまうのは観る側の想いだ。ヘタミュ中は廣瀬先生が常に楽しそうで本当によい。心からありがとう。
先に行く者たちを愛おしそうに見る、歴史に置いていかれる側になった高本プロイセン。兄プロイセンの前では弟の表情を見せるけれど、俺様日記に綴られたかつての兄の反省を胸にどんどん先に行ってしまう上田ドイツ。国としてはヘタいけれど、言葉にできない芸術的な感性で他国に寄り添える長江イタリア。普段とは印象が違ってイギリスからの離反の悲しさを色濃く見せていた磯貝アメリカ/おとなしそうでしっかりと想いを繋いでくれたカナダ。ずっと前からカンパニーにいたみたいにめきめきと成長を私たちに見せてくれる磯野オランダ。素直ではないけれど弟のイタリアに兄の顔をしっかりと見せてくれる樋口ロマーノ。時世の関係でハラハラしたけれど、元気に戻ってきてキュートにしっかりとかき乱していってくれた山沖ロシア。さまざまな役に瞬時に変化して骨太に舞台を彩り支えてくださるブルズさんたち。
大千秋楽、プライベートの姿で客席にいた中国・杉江さんとスペイン・山田さんを巻き込んでも、ヘタミュはメタを越えずヘタミュという舞台を保ちつづける。純粋にすごいなと思った。もちろんヘタミュでの役が彼らの素のすべてと一致するわけではないだろうけど、長い年月の中で血肉に溶け込んでいるのだろうと思う。とんでもない舞台だ。
■演出について
上述したがまず舞台セットが素晴らしかった。大きなものも小さなものもごちゃごちゃと雑然と置いてあるのに、実家のような庶民感はなく各国が集まる公的な場としての緊張感が常に満ちている。バンドさんたちもセットに含ませ、演技に巻き込む欲張り具合がヘタミュだなと思う。
オペラ座の怪人に、古びたシャンデリアにかけられた布をバサリと取るとみるみる時代が事件当時に遡るという演出があるのだが、冒頭の布を取ると《夢のたまり場》が現れる演出にそれを思い出した。オペラ座の怪人は舞台がパリなので、もしかしたら何か関係があったりするのかもしれない。オタクの考えすぎの可能性が高いが。
いつの間にか死神が立っている舞台というのは演出の面でもそうで、たとえば上田さん演じるジャンヌ・ダルクが花と笑顔を添えている一方で背後で対抗していたイギリスは滅多刺しにされている。英雄が勝鬨を上げるとき、足元には屍が転がっている。勝者と敗者の対比がどちらかに対しての思想の偏りなしに出されるのはヘタミュの面白さであり強さだ。
イギリスの海上封鎖のシーンで「♪ブルーオーシャン~」で青い布で海を表現するのも好きだった。私は吉谷先生の布を使った水表現が好きだ。そして同時に、ふと、フランスもイギリスも国旗が青・赤・白なのだとその時に気付いた。国旗に使われやすい色合いだと言われればそうなのだが、組み替えればフランスにもイギリスにもなれる、同じ色の国旗を持っている仲でも争わねばならなかった感情のもつれの悲しさをよりいっそう感じることができて良かった。
吉谷先生が舞台にかける「演出」という魔法に常日頃新鮮に驚かせていただいているためあれがあるから良い、あれがないから残念という感情は一切ないのだが、それでもヘタミュは吉谷先生の演出で「見たい」と思う演出をすべて見せてくれる舞台だなと思う。
今回のヘタミュの演出は、空気のようだったなと感じた。と書くとあまりに言葉足らずだが、たとえば前作のWWの花火のプロジェクションマッピングのようなサプライズ的な演出は控えめで、徹底的にストーリーや演者たちの演技に丁寧に寄り添った演出だったと個人的には感じた。どこまでも人海戦術で、人肌のぬくもりがあり、泥臭い。だからこそ舞台を思い返した時に、真っ先に思い浮かぶのは舞台上でさらけだされていた激情たちだが、しかしそこにはしっかりとそれらを花開かせる素晴らしい演出が「ある」。
私は演出家ではないのでこの言葉が褒め言葉になるのかは不安なのだが、「ない」と思えるほどその折々の空気に溶け込んだ演出を作れるということは、ド派手で度肝を抜くことよりも実は難しいのではないか。
わざわざ濃い味つけをしなくても、素晴らしい素材とそれを引き出す適切な調理で最高のひと皿は出来上がる。もしかしたらそういう話なのかもしれない。
吉谷先生今回も素敵な演出ありがとうございました。森ノ宮ピロティホールのロビーでお姿拝見できて嬉しかったです。
来年続編上演も無事発表されて、麻の着物ならぬ三角のフラッグである。カレンダーにまるかいて来年。俺達のヘタミュは三部作じゃないのなら、ヘタミュの歴史の果てまで一緒に連れてって。Spero di vederti presto, a presto!
※こちらの文章はあくまで個人の主観に基づいた感想であり実際の舞台内容、史実と異なる場合が多分にございます。また、考察でなく感情なので真偽は不確かです。ご自身の持つ感情と私のそれが異なった際は、ぜひご自身の感情を信じてください。
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