無印良品のアートディレクターを務める原研哉さんは同郷の方だ。地元新聞に掲載されていた原さんの寄稿は育った街と書店と読書とデザインにまつわるものだった。リズムの良い文章で綴られる故郷の街はあまりにも私の過去の風景そのもので、どうしようもないノスタルジーと、私も過去を回顧する「そちら側」の大人になったんだな、という寂しさにも似た感慨にとらわれている。
本当はその記事をリンクしたいのだけれど、web公開はないみたいなのでこちらに引用でご紹介していきます(しずかはGoogle検索もされないはずのでご寛容ください)
駅前にあった書店が店じまいをした。小さいながらもよく選書された感じの良い本屋で、おかげで、街にはそこはかとなく文化的な気配が漂っていた。僕は東京の浜田山という街に住んでいる。京王・井の頭線沿線の落ち着いた風情が気に入って、もう20年以上もこの街に住んでいるのであるが、書店を失ったことで、なんだかぽっかりと胸に穴があいたような気がする。しばらくして、その店のあった場所には「ガチャ」の販売機がひしめいていた。
考えてみると自分にとって書店はオアシスだった。岡山で生まれ育った僕が高校生の頃、通っていたのは天満屋の近くにあった紀伊國屋書店であった。現在はクレド岡山の中に移っているようだが、当時は単独の路面店で、記憶では2階に文学書のコーナーが大きくあった。
学校が終わると、自転車で後楽園の散歩道を通り、月見橋を渡って城下に向かい、表町商店街を抜けて紀伊國屋書店に向かう。文学好きだった僕はここで時間をつぶし、文庫本など物色したのち、気に入った本と共に喫茶店に入り、ゆったりと読書ざんまいの時間を過ごした。なけなしの小遣いをはたいて、化粧箱入りの書き下ろしの単行本などを手に入れた時の興奮は格別であった。
当時の親友は、今は物書きとなっている原田宗典で、連れ立ったり待ち合わせたりして、一杯のコーヒーで小説一話を読み切るような時間を過ごした。「この小説、たまらんぞ」と渡された文庫本を読み「うーん、なるほど」と返事をするまでの2時間余りを本に集中するといった、今思うと、ぜいたくな時間を過ごしていた。
したがって故郷の印象は自転車で走る散歩道や月見橋から眺める旭川の光景と、細謹舎、紀伊國屋、丸善といった書店、そして落ち着いて本の読める喫茶店なのである。
「おばあちゃんの家」というと普通は田舎を想像するかもしれない。けれど、私の祖母の家は繁華街のど真ん中にあった。東京でいえば銀座の一等地にある小さなビルに住んでいる感じで、バスターミナルをそなえた天満屋(地元デパート)まで徒歩3分という好立地。そこで老舗のお店を構えていた祖母は毎日忙しく働いては店屋物の出前でご飯を食べて、幼児を連れてデパ地下にいくような暮らしをしていて、まだ好景気で大人も子どもも浮かれていた頃だった。私はそんな華やかな世界が大好きで、郊外の小学校にあがる前(バス運賃が無料の幼児の頃)からひとりでバスにのって、街の中心部の祖母の店に通っていた。お金を払わずにバスを降りて、デパ地下を駆け抜けて祖母の店に行っていた。そんなことも許された時代だったし、早くから自立した子どもだった。
小学生の頃には祖母におつかいや配達を頼まれて、商店街をあちこち歩き回っていた。ケント紙やスクリーントーン、アクリル絵の具などの専門用具に心躍る画材店に商品の配達を届けたあと、配達料としてもらったお小遣いをもってデパ地下に小さなチョコを買いに行く。それから本の注文を受け取りに丸善、紀伊國屋書店、細謹舎といった本屋をめぐる。書店によって品揃えとレイアウトが全然違って、平積みされた専門書や医学書などおよそ子どもに縁のない本にも目を奪われながら「いつかここで好きな本を買いたい」と憧れの気持ちをもっていたように思う。田舎で育つ子どもにとって書店はディズニーランドのような夢の世界だったし、子どもの頃から大人びた本に囲まれて、きれいな本の表紙を眺めて過ごすのが好きだった。
中学生になるとバイト代くらいのお小遣いをもらえるようになった。お小遣いの大半で本や漫画を買い漁った。その頃は紀伊國屋で本を買うというのが自分の中でのステータスになっていた。原研哉と原田宗典が通った紀伊國屋の2階には確かに文学書のコーナーがあり、そこで私は原田宗典のエッセイを買っていた。階段をあがるに連れてサブカル色が強くなる。漫画だけを揃えたフロアもあって、今でいうアニメイトみたいな雰囲気で、足を踏み入れることにさえドキドキするような後ろめたさがあったのを覚えている。おそらく初めて同人誌を買ったのも紀伊國屋だった(本当は紀伊國屋だと思っていたフロアはアニメイトだったのかもしれない)。二次創作、商業同人というものの存在すら知らずに、それが書店で普通に売られていることも知らずに、その頃好きだったセーラームーンのイラストが可愛いなと思って中身も知らずに購入していた。初めて出会う女の子だけの世界、そしてめちゃくちゃにR指定な本を購入してしまった後ろめたさで、隠しておくのに必死だったように思う。紀伊國屋には確かになんでも売っていたけれど、それ以来後ろめたくて上の階には行きにくくなってしまった。
高校生にもなると「趣味は読書です」なんて公言することにさえも、ある種罪悪感を伴うような、本好きにはそんな居場所のなささえも生まれていた。原研哉や原田宗典が70、80年代の文化を「楽しかった」と振り返る、そんな大人たちが懐古する青春は、2000年代以降にはすでにほとんど存在していなかったのかもしれない。あったのかもしれないけれど、私は喫茶店でひとり本を読んだりすることはなく、友達とプリクラに通い、カラオケで放課後を過ごし、文学少女のような恋をして、部活に励んだ。月見橋や城下を走り抜けて通った書店が少しずつ面積を減らし、移転し、閉店していくのを遣る瀬のない思いで見送っていた。「図書館司書の資格を取りたい」というささやかな夢は「資格があっても募集がないから」というひどく残酷な理由で取り上げられて、こんな街で夢をすり減らして生きていくのは嫌だと思った。

(中略)
しかし感受性の塊のような高校生にとっては、これから出ていく大海の神秘や魅力がそこに詰まっているようで、理解できずとも、哲学や思想の匂いをそこにかぎ取っていた。そうした雑誌の造本デザインやタイポグラフィ(文字や組み版のデザイン)を一手に担っていたのは、グラフィックデザイナーの杉浦康平で、今思うと、自分のデザインへの傾倒は、こうした喫茶店時代に始まったものと思われる。
1970年代から80年代にかけての文化・思想誌の充実ぶりは一体何だったのだろうか。経済の興隆とともに、自分たちの文化の足元を見直そうという情熱やエネルギーが日本中に溢れていたのかもしいれない。
スマホを通過していく断片的な情報にほんろうされる日々であるが、書籍として編み上げられた情報の束の、濃密かつ澄みわたった編集の魅力は時代遅れのものではない。今ひとたび書籍に、情熱と洗練を注ぎ込んでみたいと、ふうつふつと野心をたぎらせていれるのだが。(山陽新聞 12/14朝刊)
言われて振り返ってみれば、幼児の頃から私が憧れて眺めていた風景の中にはいつも書店があった。祖母はハイブランドのデザインを眺めるのも好きで「手に入らなくても、眺める目の贅沢を」という理由で家庭画報とかの恐ろしく重たい(そして高い)雑誌を私に買いにいかせていたのだけど、子ども目線では全く価値を感じないジュエリーやブランド服の写真をキラキラした眼差しで楽しそうに眺めていた祖母のことを思い出す。書店にゆっくり行けないほど忙しい祖母にとっても雑誌はディズニーランドそのものだった。大人の憧れの世界が雑誌の中にあった。祖母の隣で私は書店で買った本や漫画を読んでいた。
岩瀬成子の「もうちょっとだけ子どもでいよう」という本を図書館で何度も借りていたことを思い出す。もうタイトルしか思い出せず、きっと書庫にもないような古い本だけれど、そのタイトルが示す通り、子どもと大人の狭間で私は確かに本と書店の存在に救われていた。
#読書の背景

「今ひとたび書籍に情熱を」