アクリルケースの中で息絶えた春。

「春あつめ」という課題を与えれた彼女は、きっと瑞々しい瞳を輝かせながら春の野原にでかけたのだろうと想像する。子どもたちにとっての春は永遠で、世界は輝いている。
タンポポ、クローバー、そしてモンシロチョウ。大切に集めたそれらを虫かごにおさめたとき、きっと箱の中で春はまだ生きていた。クローバーのじゅうたんの上でタンポポは黄金色の花弁をひらき、モンシロチョウがひらひらと飛んでいた。きっと彼女は誇らしげにケースにおさめたそれらを眺め、モンシロチョウがタンポポの蜜を吸ってくれることを期待していた。
子どもたちが集めた春はそれぞれのアクリルケースに閉じ込められ、日当たりのよい廊下の端に並べられた。最初の日、ケースの中で懸命に羽ばたくモンシロチョウを、たくさんの子どもたちが覗き込んでいたはずだ。隣のケースの中には数匹のダンゴムシが可愛らしくうごめいている。ダンゴムシは飛ばないから、蓋をあけてさわってみたりする子もいたかもしれない。知識のある子は、虫が隠れやすいように木の枝や枯葉をいれてあげたりしたのかもしれない。
次の日、その次の日、ケースをのぞく子どもたちは順々に減っていく。タンポポは綿毛にかわる。5月も近い春の日差しは窓ガラスを通して廊下に降り注ぎ、アクリルケースの中は乾燥して高温になっていく。土曜日、日曜日、そして月曜日。教科書のページは捲られ、新しい課題を与えられた子どもたちは、廊下の隅に追いやられたケースのことを忘れていく。
春の死骸が遺されたアクリルケースを傍観者の私が記録する。


春の空が青いというのは幻想だ。
春には、いつも霞んだ空気がついてくる。大人になればなるほどに、その空は想像していたほど青くはなく、瑞々しい光をたたえながらもどこかすっきりと晴れ渡らない。ふいの突風が、季節をさかまく冷たい雨が咲いたばかりの花を散らせ、雨に洗われた空気に初夏を感じた次の日には、粉雪が空を暗くする。美しいはずの春は、その季節にうつろう自然のなりゆきそのままのように、行きつ戻りつ心とからだをゆさぶっていく。
そんな不安定な季節なのに、どうしてか世界は春を愛している。私は架空の春を愛している。翻弄されるとわかっているのに春に憧れ、春を待ち望み、期待に満ちた季節を春と名付ける。アクリルケースに入れて永遠にとどめておきたいほど春は美しいのに、一瞬として同じ姿をとどめることはできない。春は無常で、無慈悲だ。
少し前まで虫かごを片手に半袖短パンで自転車を乗り回していた小学生が、学生服をまとった途端に言葉数を減らしていく。日にやけた頬の横に釣竿を掲げて川で小魚を捕まえた少年たちが、スマホに目を落としたままひとり河川敷を歩いていく。昆虫をさわれなくなった少女は、暗闇に光る画面の中でアイドルのSNSを追いかける。かと思えば、反抗的な眼差しで大人の世界を睨みすえ、青い理想をふりかざして現実に刃向かうこともある。そんな子どもと大人のあわいの季節が「思春期」「青春」と定義される。
思春期は美しくなんてない。青春は輝くばかりのものではない。春を迎えた彼らはスポットライトをあてられたステージの上でいつかチョウになる夢を懸命に追いかけながら、その裏側で、もがき、苦しみ、涙する。さなぎの中の幼虫がドロドロにとけたときみたいな感情を抱えて、春という混沌の中で生きている。わたしたちが「春」という名前をつけた時代には、実は光に満ちた輝かしい日々よりも、早すぎた薄着の日の風の冷たさとか、熟していない果実の酸っぱさを感じる日々のほうが多いのかもしれない。
なのに、どうしてか大人たちは追憶を美化し、かれらを彩る光を描き、「人生で一番輝いていた日々」として定義する。春という美しい名のもとに死んでいく子ども時代をまるごと埋めて、桜が咲いている間だけ桜の木を愛でるように、青の青さを、美しい季節を美しいままにおさめようとする。
傍観者の私は息耐えていく春をアクリルケースにとじ込める。まばゆい世界のうつくしさも、かさかさの死骸もぜんぶ、光と翳のありのままを記録する。
いつしか春が永遠でないことに、君は気づく。今がずっと続いていくわけではないと知ることになる。桜は散り、虫が死に、嵐がきて、君は遠い異国に旅立つ。「また明日」と言える日々が終わってしまうことを、今日と同じ明日が当たり前に繰り返されることはないのだと、春は決して美しいばかりの季節ではないのだと気づきながら、大人の時間に足を踏み入れていく。
そんな不安定な恋なのに、どうしてか世界は君を愛している。私も君を愛している。翻弄されるとわかっているのに君に憧れ、君を待ち望み、期待に満ちた思いを恋と名付ける。物語の中に永遠に閉じ込めておきたいほど君は美しいのに、一瞬として同じ姿をとどめることはできない。君は無常で、恋は無慈悲だ。
2025.5.8 UP