なんでもない自分に戻る日

松下ゆき
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1ヶ月検診で私も子も健康面でのお墨付きを得てからというもの、連日子を連れてその辺に外出している。

自宅出発から5歩で「あらかわいい〜〜」おばちゃんとエンカウント。これが噂に聞く赤子連れめちゃくちゃ中高年女性にからまれるやつ…!なぜやたら中高年女性は赤ちゃんに反応するか?

身近な中高年女性といえば母。子を見てはことあるごとに「あなたもこの顔してたわ〜」「すぐ大きくなるわよ〜」「話し出すとさらにかわいいわよ〜」と思いを馳せている。

育児を経験した人は他人の子を通して自分の子のメモリーが透けて見える目を搭載しているのだろう。そして辛抱たまらんくなり「か〜わ〜い〜い〜」となると。

それはともかく、そんなエンカウントや、ベビーカーに道を譲られたりに高頻度で遭遇すると、ああ「子連れの人」になったんだなと思う。「フツーの人」から一個属性がついたのだ。「子連れの人」は注目されたり気を遣われたりする。面映さと同時に緊張感がある。

そんな私はちょっと前まで「妊婦の人」だった。

妊婦は妊婦で、「異形の者」だ、我ながら。

じっさい、臨月のわたしは腹が唐突に前方にボン!!!とありえないせりだしかたをしており、自分でもこの世のものとは思えない形状で現実感がなくウケていた。異形。たぶんバランスボール入ったと思う。

つまり、見るからに「妊婦の人」で、少子化もあって妊婦が身近な存在じゃない人も多いからか、道を歩けばだいたいうっすら二度見されるような視線を感じていた(もちろん優しくされることもあった、ありがたいことに)。

妊娠は妊娠で「フツーの人」じゃなかったわけだ。換算して一年近く「非フツーの人」として生きていることになる。

そんななか、夫に子を見てもらいひとりで近所にちょっとした買い物に出たとき、長いこと感じてなかった身軽さ、呼吸のしやすさを感じて、なんだ?と考えたら、かなーり久しぶりの「誰からも特別に注目されない」の享受だった。

「フツーの人」に本当に久しぶりに戻ったのだ。

「子連れの人」であることは嫌ではない。でもこの自由さ「なんでもない自分」もまたかけがえのない一面だったのだと噛み締めた。なくしてわかるものもある。忘れないし失わないぞ。

噛み締めつつ、でもたとえば車椅子を使ってる人は「誰からも特別に注目されない」がけっこう難しいわけだよな…とよぎる。その緊張感の存在を知らなかったのはマジョリティの傲慢さかもしれない。

そうして、先週末は母に見てもらって夫と2人で少し外出した。フツーの人モードだ。

数ヶ月ずっとほしかった、ちょっといい眼鏡(太いフレーム。むくみや脂肪で顔に余白がうまれてもかければ締まる!はず!)。切迫早産で安静が長かったのもあり、やっと見に行けた。

会計時になって、夫が諸々おつかれプレゼントに買ってくれた。

出産以来、いろんな人におめでとうと言ってもらえたのももちろんうれしかったけど、純粋に自分のためのプレゼントもうれしかった。

(育児共同労働者としてイライラしてしまうこともあるが、これからもよろしくがんばろうな、夫…)