愛について *『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』鑑賞後推奨

yuki_torii
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 子どもの頃、母親の膝の上に座ってぴったりと身を寄せるのが好きだった。いつも家のことに立ち働いていた母親だったが、ごく偶に姑も他の兄弟も出払って、自分が母親を独占できる時間があった。そんな時は思いがけなく飴玉をもらったような気持ちで、際限なく母親にくっついていた。母親から嗅いだ甘さと汗の匂いのあのうっとりとした幸福感、あの頃の自分は身を浸すように知っていた。愛という言葉は知らなくても。

 中等学校に進むころ、青空の下を歩きながら、ふいに胸がいっぱいになることがあった。松葉の青さを仰ぎながら、冷たい風を吸い込んで、胸の奥が光るようだった。自分への期待と、これから知るであろう、手に入れるであろうものへの予感に突然走り出した。愛、とはっきり思いはしなかった。けれどあの予感はそうだった。

 全ては自分が裏切った。あの時、自分を包んでいた、あると信じた輝かしいものは全て、息苦しいほど蒸し暑い密林の中で、湧きあがる蛆虫のように、自分がこの手で潰した。人間を殴って笑う上官に阿って一緒に笑った時。棒立ちの人間に銃口を向けたとき、銃口を向けるのに心が動かなくなったとき。棕櫚の木の根本で肺を撃たれて倒れた男が、殺してくれ、と言うのを見捨て、後退りして泥の中を逃げ出した時。人間は、殴ってくる、殺しにくる、自分は、殴るし殺す。裏切り見捨てる。愛がなんだ。そんなものに自分が、こんな自分がふさわしいはずがあるか。

 だというのに、今、この胸の中にあるものはなんだろう。

 最近小さな歯が生えた。赤子のピンク色の歯茎からほんの少しのぞいたそれは、真珠のように白く丸い。尖っていない、と不思議がったら、同じく赤子の口を覗き込んでいた母親が変な目で見てきた。おかしな子だねぇ、化け物じゃないんだから、歯なんて尖っちゃいないよ。自分でも、なんでそんなことを思ったのか見当がつかずに頭を掻いた。

 自分が拾ったとはいっても、母親にだいぶ世話を任せてしまっている。世話をしていると思い出すようで、母親は合間合間にポツリと、水木が赤子の頃の話をする。あんたは本当に夜寝ない子で、神経が細くて何もないところを見て泣いてねぇ。泣いたらもう泣き止まない。一緒に泣きたいような気持ちでおぶって夜の畔を歩いたもんさ。時折、弟妹の思い出話が交じることもある。みんな戦争で亡くしたが、話に上れば意外と覚えていることは多かった。兄ちゃん兄ちゃん、と、袖を引っ張ってまとわりつくその重みとか。

 赤子が泣き出す。おしめかどこか痛いのか、と一通りあらためて、どれでもないようなので肩に小さな頭を乗せるように縦抱きする。脱脂粉乳を溶いたのはさっき飲み干したから空腹ではないはずだ。しばらく揺らしていると、落ち着いてきて体から力が抜けてきた。眠かったのかもしれない。この子も夜寝ない子だ。あんまり寝ないので抱いて墓場に連れて行くと、声をあげて笑ったりする。

 肩に温かい重み。赤子は涙と鼻水を水木に擦り付けるようにして寝入る。うんざりしながら、なんだろうこれは、と思う。この、胸のうちが膨らんでぴったりと満ち満ちるような想いはなんだろう。この子もいつか、立って歩いて、袖を引いてまとわりつくのだろうか。そのとき自分は、どんな顔をしているだろうか。

 洗濯物の籠を抱えた母親が通りかかり、赤子を抱いて揺らす水木の姿に目を和ませる。あんたもすっかり親の顔になって。そう言い残して庭へ出てゆく。痩せて老いた後ろ姿。

 愛、という言葉を不意に思い出す。

 愛ぃ? といつかどこかで、思い切り訝しんだ自分の声が耳に蘇る。あれはいつだったか。それは思い出せない。

 愛ってなんだよ、と笑おうとして、不意に、閃くように、自分がその答えを知っていることがわかった。

「愛…は、自分より、大切なものにいつか、出会うことだ」

 肩に乗せた赤子が、ぷひー、ぷひー、と生暖かい鼻息を吹きかけてくる。小さな鼻だ。小さな頭と、小さな手と、小さな足だ。

「愛は、この子の生きる明日が、取り巻く世界が出来るかぎり良いものであれかしと、心から、自分の身を賭して、願うことだ」

 自分の少し震えた声が耳に届く。どうして自分は知っているんだろう。誰から、それを教えられたんだろう。誰がそれを、亡くして、殺してしまったと思ったそれを、この手に手渡したんだろう。どんなふうに。

 何も書かれていない真っ白な記憶の海から、けれど岸に打ち寄せられ取り残された貝殻のようにこの手の中に愛の答えがある。

 煙草が吸いたい、と強く思う。赤子を抱いているのでいま両手に空きはない、叶わぬ衝動だ。けれど今、マッチを擦って紙巻きの先に火をつけ胸の奥まで深く煙を吸い込んで、それから。

 その一本を誰かに手渡したい、と強く願った。