ツイッターでこそこそ駄文を書き散らしていた時期に、同じような形式とジャンルで活動をしていたひとと仲良くなった。お互いにそこそこ多くのフォロワーがいて、尚且つ周りからの評価のされ方や、駄文の中に潜ませようとしていたテーマのようなものが似ていたため、すぐに仲良くなってSNSでの交流が始まった。当時はコロナ禍だったのもあり、頻繁にスペースなどで他愛もない話をするくらい仲良くなってから実際に会うまで何年もかかってしまい、のちにその方が高校の生物教師であることを知ったのは出会ってから数年後のことだった。
最初に渋谷のカフェで互いに自己紹介をし、まず自分より十歳も年上のひとであることに驚いた。それから、高校教師であることを聞きさらに今までとんでもないことをしていた、と反省した。当時高三だった自分は、てっきり生産者の顔が見えないインターネットの文体や声色から判断して同世代くらいであろうと思い、高校の先生とタメ口でベラベラ喋っていたのだ。さらに相手はきっと俺がずっと年下であることを俺の言動から想像していたのだろうなと思うと居ても立っても居られなくなり、謝った。謝罪は敬語だったはず。するとそのひとは不思議そうに首を傾げて、なにを謝ってるの。と真剣な顔で言った。出会った時点で対等に話ができていたのなら、それは、それがこの二人の関係値なのだから、それを今更崩そうとする必要が全くわからない。もし、話し辛くて敬語にするのであれば全く構わないけれど、それなら自分も敬意を持って敬語で返す。そう言った。そう言われてしまうと、確かに敬語を使い続けるのは失礼だと思い、そこから俺のぎこちないタメ口と相手のなめらかなタメ口が飛び交う不思議な会話が始まってしまった。しかしそれも最初だけで、やがて俺は今までとテンションは変わらぬまま自然に敬語へと変わっていった。どうしても、出会って教師であることを聞いてしまってはタメ口がぎこちなくなってしまうので、それなら自然にこのひとと話せるのは敬語の方かもしれないと思ったからだ。それからそのひととは定期的に会うようになり、なんでも相談し合えるような近しい存在で、友達で、だけど互いに敬語で話す不思議な関係になった。
相手に敬語を使うか使わないかの判断は、実際の関係というよりはほぼ自分の先入観に基づいてされているのだと思う。年齢や職業を知る前に言葉遣いや感情で距離が近づいたら、敬語が外れることがある。実際に会う前と会った後で俺とその人の関係が変わったわけではないけれど、互いにタメ口から互いに敬語になったことは大きな変化だった。むしろ、互いにタメ口だだったときより、互いに敬語になってからの方が心の距離が近づいた気がした。単に会う回数が増えたからだけではないと思う。より相手に対する尊敬の念が生まれ、それがより相手への興味を生んだのか、それとも相手の年齢や職業を知っている分、敬語である方が相手のことを踏まえた言葉になっており、それに対して上辺ではないと思えていたのか、今でも敬語になってからの方が仲良くなっていった理由を的確に言語化するのは難しい。
だからこの間久しぶりにラインを送り、この漫画おすすめです。読んでみてください。と送信したら返事がいいね、読むね、だったのがとてもさみしく感じてしまった。タメ口であることで、今までは敬意を持って接する友達だと思ってもらえていたのに、今はなんか昔仲良い時期もあった年下のあの誰だっけあのあいつ、とりあえず年下の人。という認識になってしまった気がして、考えすぎかもしれないけど、それでもさみしかった。敬語からタメ口になったことで距離が遠くなった気がした、そんなことを感じている日々。