それは練習ではない

yukinotake
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去年から甥っ子とよく遊ぶようになった。3歳と2歳の元気な男の子達である。

職場などで甥っ子の話をすると、よく「育児の練習になっていいね」と言われて、良いように言われているのはわかるけど、いつも違和感を感じていた。

なんでかなあと考えてきたけど、身近な子どもを育てることに参入するのは、自分の中での社会への反抗なんだよなぁと思う。わたしは母親との関係や兄の精神的な疾患に悩んできたから、どうやったら家族の中が健やかになるのか、なぜ捻れて歪んで最悪の場合が起きてしまうのかを自分なりに考えたときに、やっぱりある程度家庭が外に開かれていないといけないと強く思うようになった。

親も子どももお互いを唯一の存在と思うのと同時に、外に信頼できる人間はいつも必要で、可能であればすぐ駆けつけられる距離がベスト。でもこれは理想論で実際の社会はそうなってないし、気軽に開ける社会とも限らないので(まあ社会って書いちゃったけどそれが何かも場合によるし)、だからわたしはわたしのために、子どもが少なくとも小さい頃に最悪の場合に陥って欲しくないので、少しずつ出来ることをしているだけなのだ。それは別に血が繋がっているとかいないとかは関係ない。

「子どもを社会全体で育てましょう」と言うのは簡単だけど、それなら独身者だって子育てに参画するべきだししてもいいはずだと思う。子育ての一部を担うチャンスはもっとキラキラ輝いてほしい。だって、例えば夏には怖くてジャングルジムなんて登れなかった子が、今は楽しくて何周も何周もして、にこにこ笑顔でこちらを見てくる喜びは、必ずしも親だけでなく他の担い手に訪れてもいいはずだと思うから。

だから甥っ子と過ごすのは私にとって「育児の練習」ではなくいつだって一発勝負!本番!なんですよ、と言いたいけどそこまで言う時間はいつだってない。