頭のいい子が育つ家庭の特徴は、高学歴かどうかではなく、親の「言葉の厳密度高い」ことだ、という動画を観た。それに与するかどうかは別として、言葉を使えること、は社会で生きる上でだいぶ大事だ、というのは経験から実感する数少ない法則のひとつには思う。厳密には、「自分の考えていることを言葉にできること」で、饒舌か寡黙かは関係ない。その訓練としても、自分のために文を書く習慣はおすすめな気がする。
ただ、饒舌か寡黙かは関係ない、と書いたが、これができる人は往々にして饒舌になるという落とし穴があると思う。自分の考えを言葉にすることはそれ自体快楽を伴うし、自分の言葉が他人を唸らせるのも快楽だからだ。極端にそれに淫すれば、言葉で人を圧倒したり圧し潰すのを当たり前とする人間になる。そのようなことを当然視して自制心が失われていくことになる。もっと致命的なのは、自分が喋るのを他者が聞くのを当然視するようになって、「聞く」という態度が失われることで、これが本当に転落につながる。そういう人が仮初に見せる「聞く」態度は、論破してやろうと待ち構える態度になっていて、相手の話す意欲を奪い、誰にも素直に話しかけられない人ができていく。立場があるなら、イエスマンばかりがいる、という状態になる。そうすると、たぶん詰むだろう。何が詰んでいるのかわからないけど、確かに何かが詰んでいるように思われるよね。
『モモ』の主人公モモがであったのは、なによりまず「聞く」人だった、ということから物語は始まる。彼女にはなんだか誰にも話したことがなかったことを話してしまう、と。
簡単なことで、「聞く」だけでいいのにね。なぜ話したがりばかりの世の中になっているんでしょうね? 話す人間が資本主義では目立って見えるから? 朝ドラ『ひまわり』で「人はみんな話したがりなんだ」という台詞があったのを思い出す。みんな自分のことを話したいし聞いてほしいのだろうか。ちゃんと話せないと「価値ある人間」とみなされないという恐怖心があるのだろうか。私の場合、話したいことがあったら、こうして誰も見ていないところでも書いて言葉にすれば満足するところがある。これが万人にあてはまらず変なのかもしれないけど、言葉にせずためていく一方よりはよほどいいと思う。し、言葉で人を黙らせるよりも、よほど平和で健全な行為だと私は強く思う。そういう意味で、「誰も見ていなくてもいいから書く」のはおすすめ、ということにやっぱりなる。