衣食住、炊事洗濯掃除、というけれど、本来圧倒的に「食」が重要であったのは、野生の動物が一日の大半を食探しに費やしていることからもわかる。事実、無人島生活の番組や動画も、食の確保(水も含む)が大半を占めている。
だからなんだ、ということもない。でも、なぜここまで食以外のものに大きなコスト(時間・費用)を割くようになったのか、という疑問を立てられるようにはなる。答えはまだない。必要ないものを欲しくさせる資本主義の面妖さのせいかもしれないし、所有という概念のせいで生きるために「所有すべき=支払うべき」コストが生じているのかもしれない。逆に、元来はそうだったという認識をもとに、食以外にコストをどれだけ費やすべきかを見直すきっかけにもなりはする。
我々はみな「おいしいほうがいい、おいしければおいしいほうがいい」というおいしい至上主義に冒されており、しかしおいしいよりよっぽど「料理する」ほうが大事だ。なぜなら食べる・おいしいは自分本位=利己的でありおいしい市場主義が利己的な価値観の蔓延を招いており、料理する・片付けるは利他的行為だからだ。食卓で食べるのを待つ存在でなく、厨房に立って料理する存在になることが、利己的社会から利他的社会へなるための誰もができる営為だ。という趣意のことを土井善晴『味つけはせんでええんです』から学び得たのが、冒頭の話に脳内でつながっている。
野菜を買うのでなく育てる、家具を買うのでなくDIYする、といった、「買うからつくる」トレンドがある。一方で断捨離といった「買うから降りる」トレンドもある。そういうことなのかもしれない。ただこれらのトレンドは「自衛」という文脈で語られることが多い。
結論はない。衣食住すべてにコストを擁する人間生活は、たしかに着膨れしているのだろう。本来ほぼすべてを占めていた食が、家計ではむしろ小さな比率になっているのも奇妙なんだろう。食を探す時間もつくる時間もすべて外注して確保した時間で、私たちは一体何がしたかったんだろう?