所有論ver.0.5

王城の夕紀
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「所有」という概念が気になっている。思いついていることを列記してみる。

所有とは、自身の生存のための食料や食料を生む土地の「占有」から始まり、主に「簒奪防止」という観点で機能するよう使役されている。

そもそも「流れ」があり、所有とは流れをせき止める行為。なので、所有ではなく一時的な受託(借り物)に過ぎない、と考えるべき。(鷲田清一『所有論』)

私たちは本当に何を所有しているのだろう、という疑問。スマホやPCのデータは、デバイスが壊れると”所有者なのに”アクセス不能になる。電子書籍とてプラットフォームが潰れたらふいになりかねない危ういもの。銀行の残高預金は銀行が潰れたり国から接収があればふいになる。大半の所有は幻想にすぎないのかもしれない。一番所有できているものは、アナログの、意外に「本」だったりするのかもしれない。

あるいは、自分の頭と体に刻まれた「技」はどうか。石川直樹の著書に『すべての装備を知恵に置き換えること』という題名がある。だが自分の精神も、肉体も所有しているはずだけれど、所有しているというには認知症や衰えで自らの意向と関係なく損なわれていくものでもある。そう考えると、もう一度、私たちは本当に何を所有しているのだろうか、となる。

と考えていくと、じつは人が一番所有している確かなものは、他人がもっている、私についての記憶と印象なのかもしれない。いわゆる評判やレピュテーションという語にも近接するけれど。ただそれこそがもっとも確からしい財産なのだとしたら、贈与や歓待なるものの見え方が変わる。それらはじつは資産形成の最たる行為だとも言いうる。

長嶋茂雄には最後に使っていたグローブをぽんとチームメイトにあげたといった伝説が数多にあるけれど、仮に「記念に手元にとっておくグローブ」と「あげたという話」、本当の財産となるのはどちらかということを彼は本能的に実践していた、ともとれる。