赦しは壊れやすい、というジャック・デリダの言葉に深く頷く。
赦すことは難しい。不可能だと思っているほどに難しい。赦しをテーマに挑んだ映画は少なくない。そのなかで、映画『対峙』は、出色だった。被害者両親とと加害者両親の対話の果てに、被害者両親が「赦す」という言葉に吐き出す。その理由が、今までに見た物語の中で最も説得力に満ちていた。
このままじゃ苦しすぎて生きていけない。違う過去を求めることが。これ以上私の人生を支配されたくない。このままではあの子を見失う。あの子が必要よ。きっとまた会える。あの子を胸に抱けるわ。罪を赦し愛を取り戻せれば。だから赦す。
あの子を取り戻すために、赦す。それは映画で並々ならぬ説得力で迫ってくる。だが、家族でなく、他ならぬ被害者当人が加害者を赦すにはどのような理路があり得るのだろう。そんなものがあるのだろうか。そこに肉薄した映画として『灼熱の魂』が思い浮かぶ。壮絶な映画だ。この映画の筋は比喩でもある。赦すとはどういうことか、それはこのような寓話としてしか描けないという敗北さえも感じる。赦すとは、自分に対してひどいことをした我が子に対する思いのようなものではないかと。
被害者は、加害者に自らの痛みをわからせたい。さまざまな被害者に共通するのは、このことのようにも思う。しかし別の問題もある。加害者も被害者も、加害者としてしか見られなくなり、被害者としてしか見られなくなり、自分じゃないものを見られるようにしか見られなくなる。映画『対峙』の赦しは説得力に満ちていたが、それでも私は見終えて、また被害者両親の怒りや苦しみがぶり返す可能性はあるのではないか、と思った。
それほどに、赦しは壊れやすい。一度なされた赦しは壊れうるのだ、という了解が必要に思う。