食を探す時間もつくる時間もすべて外注して確保した時間で、私たちは一体何がしたかったんだろう?
と、昨日結尾に書いた。これは、「人間の最後の敵は退屈である」という、マレ・サカチ~に書いた話へと想起が及んでいく。松尾スズキ氏は、禁固刑や独房が罰になるように、退屈というのはたいしたもんで罰になるのだ、と言う。退屈が苦にならないようになれば、退屈をどうにかできれば、多くの問題は解決する気さえする。しかし逆に、私たちは退屈を苦にするから、文化や娯楽や要らないものを欲しがる文明を発展させてきたとも言える。
赤子は退屈しない。見るものすべてが初めて見るからだ。でも、六歳や七歳だともう退屈そうにする。退屈する心自体を変える(たとえば抹消するとか鎮める)、退屈する心を満足させるものを変える、の2つがあって表裏一体かもしれないが、当面は後者が有望に思われる。つまり「次々新しいものを欲しがるでなく、身の回りのもので退屈しなくなるようにする」ってこと。たとえば植物を育てると毎日水を与えたり様子を見たりする、歩く道を変えることで何かを発見する。ただ、今出した二つの例は微妙に違って、後者はやっぱり新しい何かを探しているが、前者はそうではない何かに思われる。具体的には、前者はインプットの解像度を上げるこちら側のアップデートに思われる。
TBSラジオのアトロクで「解像度高すぎ晋作」という言葉があるが、たとえばある寺に行っても、木造建築の研究家や仏教の研究家は、私より見るべき場所や汲み取れる情報が圧倒的に多く、つまりはその寺にいても退屈しないで楽しめるだろう。「教養とは遊ぶためにある」というタモリ氏の言葉は、こういうことを意味しているように思う。
実際、カワムツやメダカを飼い、チューリップやハエトリグサを育てることで、私はやることが増えたし、ハエトリグサにはどう水をやるべきかや冬に弱っているのは大丈夫かなどやむにやまれず調べたことも多くあり、経験に基づく教養が増えた。すると実際、街を歩いていて目にするチューリップ花壇への目つきも変わった。自分はなかなか複数のチューリップを一気に咲かせられないがゆえに、一斉に咲き誇る花壇に崇敬の念を抱くようにもなった。
何かをいたずらに手繰ってみる、のも一手だ。吾子が恐竜や昆虫や動物が好きになったがゆえに、私も動物の本や番組が目に入るようになった。鯨と牛は同じ種族(鯨偶蹄目)なんて知らなかった。タモリ氏の言葉はむしろこういうことを指している。何かに興味をもつと、それが目に入るようになる。調べるとどんどん何を面白がるべきかわかり始める。ポイントは、最初はちょっと無理やりにでも入ってみることだと思う。地形なんかに興味がなくても、自分の家はどんな地形にあるのだろう、と地図を見てみる。ああ、あそこが高いのか、などと知って、ちょっと行ってみよう、となって、くらいの入り方でいいし、飽きたら終わればいい。
己の解像度を高める遊びをしよう。なんだっていい。植物や小動物や苗床などの小さな責任をつくる、でもいい。何にもならなくていい。何にもならない方がいい。だって目的は、退屈を倒すことだけだから。