それを宗教的と呼ぶのははたして正しいのだろうか

yukioterasawa
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何かに熱狂する図式は色々なところにある。野球やサッカー、歌や映像、ライブ、エンタメにはあっちこっちにあるし、商業でやるのであればそうやってファンを増やして商売にする。最近ではネットでそうやって支持を集める人もいる。政治だってそうだ。

面白いなーと思うのは、その熱狂の対象に入れあげる成分があんまりに多くて、その熱狂がやっている世界は二の次になる人達がいるということ。

たとえば大谷翔平のファンはみんな野球が同じくらいの熱で好きかと言えばそうでない面がある。大リーグのチーム幾つ言える?って話。もちろん知らなくても楽しめるし、知らないからダメなんてことは全然ない。大谷翔平だけが好き過ぎて、今年も二刀流を楽しみにしているなんて人がいたって不思議じゃない。もう少し、さあ、ねえ、って気持ちはまああるにせよ、それでもその人が入れあげられるっていう事実はあると思う。

三笘薫だって多分そうだ。2000年代なんてもうウイングなんてポジションは不要であるみたいな感じだったこともあった、なんて話を三笘薫ファンと分かち合えるかと言えばきっと難しいと思う。もちろん当時だってサイドのドリブラーはいたけど、そういう戦術自体がもう現代的じゃなかった。ベッカムは右サイドの選手だけどウイングじゃなかった。

そのくらい、その分野の理解度と、熱狂への興味がズレる現象があって、それを宗教的と呼ぶのは果たして正しいんだろうかって思うことがある。宗教の方もいい迷惑なんじゃないかなっていう。周囲がカリスマを持ち上げてる図式は宗教的な面はあるかもだけど、なんかちょっと違わないですかねって思う。

政治もなんか良く分からなくなってるなーって思ったけど、みんなそうやって誰かに自分を託すというか、自分を維持するために誰かを持ち上げてる感じがする。どんなに立派な人でも自分じゃないんだから、あんまり入れ込むと辛くならないかなって思うけどなあ。

もうちょっと野球とかサッカーとか芸能とか政治とか、そのものを楽しんだり参加したり考えたりする中で、存在する強いキャラクターとして認識する、くらいのバランスで自分を存在させてた方が良いのではって思うし、そういうのってあんまり学校じゃ習わないよね。

その距離感を狂わせるのも商売として広く薄く、でもできるだけ多くというスタンスなら大事なことなのかも知れないんだけど、あんまり商売する側にとってしてやったりになるのもどうなんだろう。それこそが宗教的だと言うのであれば、やっぱり宗教からしてみると迷惑なんじゃないかしらね。

◯◯が好きな自分が好き、な人はSNSが普及したことでウンザリするほど目にするようになったし、それでトラブルなんかも起きるし、それを加速しようとする手口も日常的にある。ドトールなんかより沢山ある。最初は面白いかもと思ってたけど、最近は少し怖い。