情報化社会で色んな情報が溢れててそこから考えられること、みたいな仕草が増えた。考察系なんかもそうだし、みんな色んなエビデンスから何かを決めている。
でも、わかんないことってあるじゃん?
今震災で現地のトイレが大変なことになっているということは知識として知ってるけど、神戸や熊本や岩手宮城、その他で似たような体験したことなければ言葉として大変ということしか分からない。想像はつくけど、その想像の範囲であるかは確かめようもない。分からない。
でもトイレが大変ってことはあんまりトイレに行きたくない→水分取りたくない、みたいな発想しがちだろうな、なんて想像はできる。自分がその立場になったらそう考える気がするし、そういう話もちょいちょい耳にしたことがある。
なんて風に想像を膨らませて、合ってるかどうか分からないことを並べるのってSNSが普及してもあんまり広がらなかった気がする。想像をふくらませるのは確定情報じゃないからアウトプットしにくいし、したところで分かってもらえるかは分からない。情報も唯物論的に扱われてる。
一方的な決めつけに対しての反論ではそういう想像が有効かというと、その裏付けは?みたいな話になるわけで、口ごもっちゃう傾向にある。決めつけてる人もそんなモヤモヤした想定ぶつけられて話を聞けるようなら、簡単に決めつけないだろうし。
映画やアニメ、漫画、表現されていることは情報にあって、そこになくても設定情報として存在するものがあってと、どんどん情報が積み重なって消費していく体験はそれはそれで面白いけど、そこに描かれてないことを読み解いたり想像する余地みたいな楽しみ方より、そういう読み解きのアウトプットを自分の武器にどんどんしていくみたいなゲームになっている感じ。
避難所の電気って何時に消して何時に点けるんだろうか?みたいな疑問が出ない感じ。自分が避難する番になったらそういう体験をしなくちゃいけない他人事だと思わなければ考えても良いんじゃねえかな、備えるってそういうことじゃないかな、とか思うけど、そんなリアリティはたぶんニーズが無い感じ。
なんかそういう群衆としての人間の限界が見えるネットは愛おしいんだけど、あんまりそっち方向でカッチカチになってしまうと急に悲しくなったりもする。