私が泣くなんておこがましいだろうけれど

yukiyadorigi
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私はふだんニュースを見て泣いたり、SNSで何か発言したりしない。理由はふたつある。

ひとつめは、たとえ世界の誰かが不幸でも、とんでもなく理不尽な事件があっても、私の人生に関わりがないなら内輪で話題にする程度の感情しかわかないからだ。

ふたつめは、部外者である自分が上っ面の共感や同情で涙を流したり言及したりするのは、それをはるかに上回る悲しさに暮れているであろう渦中の当事者に対して失礼な行為のように思うからだ。

けれど、今日、仕事を終えてなにげなく見たニュースに、心が激しく揺れて、どうにもならなくなった。その関係者、その事件の固有名詞に触れることは、先に書いた理由があるからここでもしない。

私が思ったことだけ、自分のために記録しておく。

人生の中でどうしようもなく「おかしい」と思うことが何度も起こること自体には、耐えうる。出来事の一つひとつは痛みや苦しみを生みだしはするけれど、心を壊す直接的な要因ではない。

その「おかしい」という感情を持っている人間がこの社会には実に少ないことを実感する瞬間が、心を壊す。「おかしい」という感覚を誰にも共有できていないという事実を実感する瞬間が、どうしようもない孤独を生みだす。

自分の身の上に起こった出来事を、できるかぎり誰も被害者にしないよう、細心の注意をはらいながら語ったとする。その覚悟するまでにも多くの葛藤を帯びながら、それでも語らなければならないと判断したとする。

その細心の注意、覚悟までの感情の経緯は何ひとつ伝わらず、それを被害と加害に二分して騒ぐ人々の声が波紋のように広がっていったとして。さらには自分は加害者ではないと、当該案件の当事者からもまとはずれな意見がぶつかってきたとして。

そこにあるのは、誰もが二項対立で物事を捉える世界のありようそのものだ。強弱、優劣、白黒でしか物事を捉えず、あわいにある文脈をないものとして、第三者が片方に肩入れをして争いに発展させていく醜い構造。

そういうものを嫌って、敵と味方に分かたれない世界を願う者が、あろうことかその渦をつくる当本人になってしまったら。そして、誰も自分の願った世界には気付かず、「なぜ語ったのか」という背景にも目を向けてくれなかったら。

そこにあるのは救いようのない孤独だ。私はその孤独を自身の人生のなかで幾度か味わい、死にたいと思ったことがある。

まるで肺呼吸をする生物が住む星に、ひとり紛れ込んでしまった鰓呼吸をする生物のような気分。他人のニュースに便乗してそんな気分を思い起こし、泣いてしまう自分は、なんとエゴイスティックなんだろう。

けれど悲しくてたまらないのだ。もしかしたら同じような息苦しさを感じていたかもしれない人が、ぎりぎりのところで耐え切れず、命を落としてしまったのかもしれないから。

私はこの社会の構造、なんの当事者意識も責任感もなく誰かの事件に便乗して喚く有象無象が大嫌いだ。単純化されて文脈が消し飛ぶ世の中では生きていけないくらい息苦しい。

でもなんとか生きていかなければと、自分のことを活かせる世界を求めて、東京から逃げて、会社から逃げて、親から逃げて、規範の外にある自分らしい生活を追い求めて、今なんとか、息をしている。息苦しくなったとき、支えてくれた人たちがいたから。今も私を生かしてくれている人たちがいるから。

私はたまたま周囲に恵まれて生き延びたに過ぎない。それを久しぶりに感じてしまう。かろうじて生きているだけの自分を。これは「マイノリティに救いを」とか「心が繊細な人を想え」とか、そういう単純な話ではない。きっと私が生きているわずかな人生の間では、この社会はちっとも変わらない。誰もわかってくれない。きっと死ぬまで孤独なんだろう。

私が泣くなんておこがましいだろうけれど、今日はひたすら泣いた。自分が生きることを認め、救ってくれた人たちを想うことで、なんとか明日を生き延びていこう。

@yukiyadorigi
ここでは何者でもない自分の日々を残していきたい。