Fortniteというゲームを最近久々にやってる。銃を撃ち合うバトルロイヤル。
このゲームを始めたきっかけは元旦那だった。元旦那はプロゲーマーを目指していただけあってめちゃくちゃうまい。元旦那と共有できる趣味がゲームくらいしかなかったから、操作方法とか立ち回りとか教えてもらって、よく一緒に遊んでいた。
でもゲームというのはよくできていて、戦うユーザーのレベルがだいたい同じになるようにマッチが組まれる。私みたいな超初心者と元旦那みたいなガチ勢が組むと、基本的にガチ勢のほうに合わせてレベルが調整される。つまり私にとっては鬼のように強い人ばかりと戦うことになる。
私の撃つ弾は全然当たらないし、逆によく倒された。失敗の連続。自己肯定感がどんどん下がって、いま振り返れば心からは楽しめていなかった。元旦那はそんな私を見て、自分の力でどうにか勝ちに行こうとする。でもそれじゃぁ私は居る価値がない。訊けば色々アドバイスもくれたけど、それは長年プレイしてきた人の視点からのアドバイスで、そのアドバイスを生かす能力が私にはなかった。それに、マッチで当たる人たちがあまりに強いというシステム上の理不尽は、もはや私の努力じゃどうにもならん問題だ。私が仕事をしている間もゲームに時間を注げる人たちと私が肩を並べることは、現実的に不可能だった。
それは理由の一部ですらないけれど、結局は離婚したので、しばらくFortniteを開かなかった。銃を撃つゲームはもうこりごりだなと思っていた。
時が経ち、今お付き合いしているパートナーさんもFortniteをプレイしていると知る。ゲームの他にもたくさん共有できる趣味があるから特にFortniteをやることにこだわりはなかったけれど、たまたまお互い欲しいスキンが出るという情報を仕入れて、じゃあ手に入れるまで一緒にやろうか、という流れに。
一時期ガチでやってたんだよねぇ、とのんびり言いつつ一般人レベル(仕事のあとの時間ですこしプレイする程度)のパートナーさんと私は、偶然にも同じくらいのレベル感だった。
どうやって戦うか相談しあえるし、方針をふたりで考えられる。パートナーさんは私の好きな強い武器を譲ってくれるし、私もその優しさに遠慮しなくていい。だって同じレベルだから。お互いばかみたいな死に方をして、そのたびにゲラゲラ笑っている。そしてマッチで当たるユーザーは昔と比べてはるかに弱い。自分に適切なレベルというものを初めて知る。そうかぁ、本来ならこんな感じでイージーに楽しめるゲームだったのかぁ、と拍子抜けした。なんだかんだで戦績はめちゃくちゃいい。
今のパートナーとやり始めて、たとえ負けてもこのゲームを楽しめることを知った。どっちが先に死んでも「ごめん!」という声がかぶる。「フォローできなくてごめんね」と「先に死んじゃってごめんね」。その瞬間、初めてふたりでやってる、と実感できて嬉しくて、なんて楽しいんだろうと思った。
自分が何かを楽しめていない時、自分が悪いと責めてばかりいたけれど、環境や関わる相手が変われば同じものを楽しめるようになったりもする。
ここはしずかなインターネットだから正直に一方的な不満を書くけれど、元旦那は私のレベルに合わせること、ふたりで楽しむことはぜんぜん目指してくれなかった。もしそれが無理なら、私と一緒に楽しめる趣味を探してくれたってよかったじゃんか。自分が好きなこと、得意なことに執着して、それに寄り添おうと必死だった私の努力にも配慮してくれなかったあの数年間が、どれほど私の自己肯定感を砕いたことか。
……まぁ、でもそれはお互い様だよね、とも思う。彼がゲームに情熱を費やす代わりに仕事、生活、人間関係といったあらゆる面で社会的レベルが低い人間になっていって、すこしずつ周りと相対的に見たときに「弱者」になっていくことを知っていたのに、私はそれにレベルを合わせることも、彼の視点に立ったアドバイスをすることもなかった。なんでそこまでしなきゃいけないんだよ、子どもじゃないんだし、と。お互いリアルでもゲームでも、ふたりで生きることはできなかった。
「好き」とは別に、レベルというものがある。一緒に生きる相手は、互いのレベルが近しいほうがいい。多様性だとかなんだとかきれいごとを並べて、どんな相手であろうと好きになれる心を育もうと頑張っていた頃もあったけれど、今はたしかに思う。レベルは差別じゃなくて区別。近しいレベルの者同士で集まろうと意図する行為は、むしろ互いにとって優しさでもあるんだろう。