【ネタバレ注意】映画『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』の雑感

yukiyalien
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公開:2023/12/6

映画『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』を観てきました。映画一作目『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』二作目『青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない』に引き続いて、公開日当日に即座に観てきました。というのも、いい加減積読していた原作をとっとと読まなくてはと号泣しながら読み進めていたら、読了したときにはちょうど公開日当日の0時(前日の24時)を回ったころだったのです。忙しいので機を逃すと見る機会を逸すると思い、前々作・前作に引き続き公開日にサクっと観てしまおうということでした。結論から言うと原作同様に号泣することになりました。ストーリーが良いのはさることながら、原作を読んだ記憶がまだ新しいうちに映画を観たことで、媒体を跨いで翻案した際の工夫やこだわりを感じ取ることができたのも良かったです。

『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』とは何でしょうか。「青ブタ」シリーズの高校生編の最終章であり、『ゆめみる』に続く第二の節目のような作品です。そしてシリーズの中で最も重要であることは、これが「梓川咲太のために書かれたお話」であるということです。

青春ブタ野郎シリーズでは、思春期症候群を起こす登場人物たちの様々な苦悩が、なんやかんやあって本人の成長と咲太の尽力によって解決されてきました。一方で今まであまりフィーチャーされてこなかったのが、咲太自身の本心、咲太自身の悲鳴です。『ランドセルガール』はこれに徹底的に向き合った回であるといえます。

妹がいじめによって解離性障害を起こし、母が精神を病み、一家は離散し、自分とその妹だけで暮らす。家事からバイトから学校生活から全てを自分でこなして生きていく。これらは作中でも触れられていた通り、一人の男子高校生が背負うには重すぎる境遇です。その上で心から妹と対峙し、麻衣さんを愛し、何人もの親友を絶望から救ってきた咲太の頑張りは、登場人物たちはもちろん、我々読者も良く知るところではありました。

一方で、咲太は高校生にしては(むしろ“たかが高校生”であることを自覚しているからこそ?)、達観したメンタルとどこか諦観的な視点をバランス良く持ち合わせていた人物でした。アツく正論を語り掛け情熱と正義で行動するような一般的な主人公像のそれとは違いますが、咲太は咲太らしい方法で、思い返せば超人的とも思える働きかけによって問題を解決してきました。

だから正直、私としては「咲太はなんて強い人なんだ」と思っていたのが事実です。誰かが落ち込んでいるとき、誰かが悩んでいるとき、真正面から鼓舞するのではなく、相手の感情をそのまま認めて受け入れて、少し心が楽になるような形でいつも立ち直らせてくれる咲太は、なんとすごい主人公なのか、と。

しかし、梓川咲太とて一人の子供であり、一人の思春期の高校生です。忘れかけていましたが、咲太とて何も「大丈夫」なわけではないのです。その事実に向き合い、今までの咲太の頑張りを心の底から認めてあげるお話。咲太が「青ブタ」の世界に与えてくれた全てに対し、周りの登場人物が、読者全員が、そして原作者が、愛を持ってそれに報いるお話。

これが、私が『ランドセルガール』を「梓川咲太のお話である」だと感じる理由です。

梓川咲太が今までしてきた全てを思い返しながら、がんばったね、えらかったね、ありがとう、という思いがあふれてくるのが今回の作品でした。だから、今作で私が涙腺崩壊したポイントは大抵、「咲太を認めてあげる」キラーワードが発せられた箇所だったなと感じます。

ありがとう咲太、頑張ったね咲太。これがノベル及び映画『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』に対する主たる感想です。放心状態でスクリーンを出た後、気が付いたら麻衣さんのアクスタと豪華版のパンフを手にしていたのが怖かったです。レジで受け取るときにまでちょっと泣きそうになりました。

各シーンに対する細かい感想備忘録

  • 原作にもあった「母と一度も目が合わない」シーン。先に原作を読んでいて展開を知っているのでじっくり確認しながら観ていましたが、最初に母と対峙したシーンではいかなる場面でも徹底して母が咲太を認知していないように描かれており、あらためて視覚的に見るとやっぱエグいな…と思いました

  • 咲太が家族の誰からも認識されなくなっていることを目の当たりにした後、半ば絶望とともに社宅を出るシーン。「一瞬だけ躊躇ったあとで、咲太は自分の中の何かを閉ざすつもりで鍵を閉めた。金属の擦れる乾いた音がした。」という原作の描写が非常に心に残っていましたが、心なしか映画でもこの鍵を閉めるシーンが表象的に描かれているように感じました。

  • 物語のひとつの締めくくりたる今作は、各所で『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』との対比的構図がよく用いられます。「保証」や学校の校庭など。その意図をよく汲み取って映像でも表現されていて感慨深かったです。

  • 総じて、感情が溢れる瞬間の咲太が全てヤバかったです。原作でも咲太が涙を堪えようとしながらも溢れるシーンが多かったように思いますが、そのコンマ数秒おきの感情の機微が映像で巧みに表現されていたように感じます。

  • 特に印象的だったのは、元の世界線に戻ってきた咲太に、咲太の部屋で麻衣がかけた「そういうのを、なんて言うのか咲太は知らない?」「そういうのをね、大人になったって言うのよ」の場面。その直後の咲太の、一瞬堪えようとするも溢れた感情の描写と演技が凄まじく、まさに咲太のこれまでの全てが一瞬にして溢れた圧巻のシークエンスでした。私はここが一番泣いたと思います。一緒に苦楽を共にしてきた、この世で最も安心できる麻衣さんの隣で、最も尊敬する大人な麻衣さんからかけられたこの言葉のあたたかさは、咲太の軌跡を肯定するものであり、包み込むものでした。

  • 一方で手を握りながら麻衣が発した「捕まえておかないと、また咲太どこかに行きそうだし」は単なる照れ隠しのかわいい台詞ではなく、過去にはこの世界の全てを背負って勝手に消えていなくなろうとしたこともあった梓川咲太という男に対する麻衣の感情のデカさを感じられて、心が震えました(地味だけどサラッとスルーしていい台詞じゃないと思う、かなり凄みがあるというかこの世界から梓川咲太を失わせないという麻衣の強い思いというか)

  • 「不可思議のカルテ」のアーティスト名部分、キャラクター同士が普通はスラッシュで区切られているところを花楓とかえでだけは「&」で繋がれているのが良いですよね。前作映画の時点でそうだったのだろうとは思うのですが、「梓川花楓」と「梓川かえで」を切り離して捉えない細やかなこだわりを感じる気がします。

  • 大学生編アニメーション制作の発表が原作絵で行われたの、何かこうすごく感慨深く感じました。(続編制作の発表があったことをその日の午前にはTwitterでネタバレ踏んでしまっていたのですが…。)

「青春ブタ野郎」シリーズ(高校生編)に対する今の所感

青ブタという作品に思春期に触れることができたのは、私にとって非常に幸運なことであったと思っています。忘れもしない高1の冬、ニコニコ動画でTVアニメ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』1・2話を一気に見た次の日、高校帰りに衝動的に原作一巻を買って一気に読んだのを今でも覚えています。そこからアニメが進むとともに原作を読み進めた日々。校外HRで鎌倉・江の島方面に行った日、そのまま一人で江の島・七里ヶ浜や藤沢市内の聖地巡礼に訪れたこと。住宅街の橋や駅前の電気屋の本屋に至るまで、感慨に浸りながら歩いたのが思い出です。

気が付けば大学生になり、あと1年で卒業が見込まれる時期になってきてしまいましたが、自分のライフイベントの進行に合わせて青ブタという作品に立ち会えているのは、あらためて非常に幸せなことです。間違いなく私の「青春」の一部を形成した作品でした。

今後の大学生編に期待が膨らみます。何しろまだ原作を読んでいないので。落ち着いたらゆっくり読み進めたい。そしてそろそろ、また藤沢を訪れたいなと思っています。藤沢はいい街です。それがインターネット上で観測されるかはわかりませんが、もしこの記事のように書き散らしを書く機会があったら、あなたには聖地巡礼行ってきた編でまたお目にかかります。それでは。

高2の時に訪れた七里ヶ浜(2019年5月)

▲ 高2の時に訪れた七里ヶ浜(2019年5月)

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