久しぶりの腹落ちだポン

皆目
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旧Twitterで「自己なんてものは把握することはできないから探しても無駄。【私】を観測できるのは【私】と何か(誰か)との関係性の中でだけ。いろんな関係性を持ってして、その反応を観察して『自分はこういう時にこうなんだな』と観察を重ねよう、楽しもう」(超意訳)(間違ってたらごめん)というツイートを見て、とても腹落ちした。

少し前に永田カビさんのコミックエッセイを読んでコミュニケーション不全について書いたけど、何だか私の中で繋がった気がした。

私はずっと自己を見失って万年モラトリアムなんて思ってたけど、そもそも自己なんてものはない→ただ、自分以外のものと関わり、その反応を観察することで「自分ってこういう人間なんだ」は把握できる→そこに良い、悪いもない。「この事象に反応する私」でしかない。

と改めて解釈すると、えらく呼吸が楽になった。今まで毒親や抑圧と戦ってたからモラトリアムなんだと思ってたけど、そもそもないのか!がまず一つ目の衝撃。

そして二つ目の衝撃は「私は『普通の人ならこういうコミュニケーションをするはずだ』というコミュニケーションしかしてこなかったから上記で言う“関係性”が成り立っていなかったのかもしれない!」という点。いや「こういうコミニュケーションしかできない人間である」ということが観察できることはできるんだけど、多分こういうコミニュケーションしかしてこなかったから今まで私が欲しがっていた自己像というものが得られなかったんだと、心底腹落ちした。偽物の感情で自己なんか測れるわけないのよね。

自分って何でこうなんだろう。っていう気持ちがずっとあって、その【原因】を探ろうとしてた。その原因を探るために「自分とは」というものを探っていたに等しい。けど、そんなものは存在しない。

ああ、なんだかこの不毛な問答を終わらせられそうな気がして気持ちいい。自己はない。自分なんてものはない。時や場所、関係性によって様々でおよそ言語化できるものでも捉えきれるものでもない。だからいちいち落ち込まなくていい。私が「そう反応しただけ」。そうして、それを観察し続けたら少しだけ「自分ってこんな人間なのかも」が自分なりに言語化できるかも。少しだけね。

このツイートは篠原信さんが書かれていて終わりの方に『生態学の研究者のように、研究するように自分を観察してみよう。研究者は、デコボコの発見も嬉しく思えるよ。自分の研究者になろう、面白がろう』的なことも書かれていて、なんて優しい言葉なんだと思った。

巷で話題のタヌキだって、マヌケでかわいいって言われてるもんね。私だってマヌケでかわいいのかもしれない。あと『期待しない。比較しない。ちゃんと観察できなくなる』ともあって、その通りだと頷きまくった。タヌキも「キツネに比べると足が遅い」「キツネならこうするからきっとタヌキも」ってなると良くない。だってタヌキの研究なんだから、そこにキツネの評価軸はいらない。もちろん研究によっては比較が必要だけど、私の研究においては私の観察のみでいいはずだ。私が、私として生きやすくなるための、私による研究だから。

篠原信さんのツイートは哲学ベースなんだろうけど、どんな心理学の本を読んでもなかなか得られなかった腹落ち感があってやっぱり哲学っていいなぁとも思った。最後に自著のリンクを貼ってくださっていたので、今度読む。タイトルは『世界をアップデートする方法』。私の世界がまた少し広がるかもしれないと思うと、楽しみ。

@yukkuri
皆目検討もつかんのよ