夫はとてもいい人で優しくて寛大で尊敬してるんだけど、やっぱり他人だから相容れない時がある。以前ならそういうとき「何で!!!」とただただ憤っていたけど、今日はそれを受け止めてみた。具体的には、ノートに感情を書いてみた。
これこれこうでモヤッとした、おかしいと思う、謝ってほしかった、でも「謝ってほしい」って他人をコントロールしたいという気持ちの現れでそういう思いがあるからこんなに苦しい私がいるのでは?、それはそうかもしれんけどモヤッとしたよ、まだしてるよ、やっぱりこの点はおかしいと思う、他人はコントロールできないけど私の思いも抑圧しない、だから次はこういう風に言ってみよう
って感じで。不思議とスッキリした。感情を整理できたという点もそうだけど、何よりこの一連の文章を『心の底から否定することなく』書けたのが良かったんだと思う。こういう書き物をする際、書きながら「まぁ結局私が我慢すればいい話で……」って臭いものに蓋をバーン!するような展開が多かったんだけど、今回はモヤッともイラッとも全部書いたし、一つも否定せず、尚且つ次回にまで繋げられた。今やそんなネガティブ、ほとんどどうってことない(と思う)。以前の私なら深夜まで引きずって鬱々してただろうな。
少しずつ進んでる気がする。ここ1ヶ月くらいは立ち止まったり転けたり突っ伏したりしてしまう日々だったから、嬉しい。
ちなみに今日もまた実母に「ウガア!!!」ってなったけど、その感情も否定しなかった。「私がちゃんと実母の気持ちを受け止めないといけなかったかな?」とか「もっといい言い方があったかな?」とか思っている自分も肯定しつつ、「でも普通に考えて自分の課題を私に押し付ける実母がおかしいし、心の底から知らんがなって感じだな!確実に私の人生にとってハッピーじゃないモノだ!捨ておこう!」と一貫して自分の感情を支持できた。そこにはエイヤッという勇気が必要だったけど、でも、その勇気は『他人を見捨てる勇気』ではなく『自分を守る勇気』だったから何の後ろめたさもなく持つことができた。
私は私を守っていい。幸せな人生を選び取っていい。そうやって呪文みたいに心の中で唱えたら、いつの間にか力が入っていた眉間が柔らかくなった。眉間とは皺の寄ってない状態が自然である。であるとすれば「そうか、自然体とはこうあるんだな」と思った。どこにも力が入ってない状態が自分にとってのスタンダードになりたい。いつだって身構えなくても、何かの言い訳を用意しなくてもいいようになりたい。誰かを傷つけたとしても、私の人生は私のものだからって、言い切ってみたい。
自分の感情を否定しないってこんなにも気持ちいい〜〜〜ことなんだな……三十路を超えてまで尚こんな気持ちになれるなんて、なんやかんやでしぶとく生きてきた甲斐があった……僥倖である。
でもこういう思いをすぐ忘れてしまって軽率にドツボにハマってしまいがちな人間なので、この生まれたてホヤホヤな気持ちを慌てて記しています。そして、こういった思考を通して「最近の夫は仕事が大変で少し元気がないように感じるし、今日の言動にはそういう都合があったのかもしれない。夫がしてくれたように私も夫を支えたいから、明日ちゃんと話をしてみよう」となった。清々しいです。誰にとっても誠実で、優しくありたいんだ。そんな自分でいれることが何より嬉しいんだ。この思いは時に自分の首を絞めてしまうかもしれないけれど、それでも、そうありたい今生です。しぶとく生きる。
末筆となりましたが、前回の記事に感想レターやいいね(ブルスカ)、ありがとうございました!インターネットの混沌具合に辟易してTwitterから逃げてきた人間ですが、こうやって反応をいただけるとインターネットはやはり良い文明……と手のひらくるっとしちゃいますね。現実世界では晒け出せないことばかり書いているので殊更インターネットの恩恵を受けているなぁとしみじみします。
私にお心遣いくださった皆さんが明日、美味しいものを食べてくれますように!(オーブンで焼き芋を作るとハッピーになれるので是非)