「――なァ、もしもの話」
サンジが、テレビに視線を向けながら言った。昼に放映してるドラマを風呂上がりに観てストレッチをし、水や、次の日が休みであれば少し酒を飲むのがサンジの日課になっている。
ローはこの時間を積み上がった論文の消化に充てているのでドラマの内容は知らないが、ちらっと視線を上げて見ると、どうやら愛憎劇だとわかった。
「おれが浮気したら、お前、どうする?」
こちらを見てサンジが興味津々といった顔で、にひ、と笑った。
サンジが浮気。聞いただけで不快な言葉に、知らずと顔に力が入る。
「……もしもの話だって! 今このドラマでさ――」
ローはサンジの説明を聞きながら、どうしてか、幼い頃に飼っていた蝶を思い出していた。
花壇で芋虫を拾ってきて、蝶になるまで育てた。そいつが羽化した時の感動と、死んでしまった時の衝撃は、幼いながらにとても印象に残っている。
ラミや母様は、羽化した蝶が狭いケージで飛び回るのを可哀そうな目で見ていた。何度か「放してあげたら?」と言われたこともある。
ローはその度に首を横に振って、結局その蝶が死ぬまで、せっせと世話を続けたのだった。
ある朝、地に落ちて動かなくなった蝶を見て、ローは産まれて初めて喪失感というものを味わった。
泣いたわけでも、何かを言ったわけでもなかったが、どうしても蝶を片付けられないローに、少し寂しい顔をした父様が標本にすることを教えてくれた。
少し色褪せてはいるが、今でも箱に入れて仕舞ってある宝物だ。
――サンジが浮気したら。
ローは、まず、あらゆる手を使って相手を社会的に殺すだろう。相手の男……いや、女であろうと、もう二度とサンジに近寄れなくする為だ。
「なァ……悪かったって、んな怖い顔すんなよ」
ローは渋い顔を崩せず、ふうと小さく息をこぼした。
もう論文を読む気にもなれずパソコンを閉じると、サンジの座るソファに移動する。少し乱暴に腰かけると、隣の細っこい身体がすこし揺れた。
わざとらしくため息をついて横目で見れば、サンジもこちらの様子を伺うように、しかしドシっと乱暴に体を寄せてきた。
「……お前が浮気したら相手の男、いや、女でもだ。社会的に死んでもらう」
近づいてきた丸い頭を捕まえて、ご機嫌取りのキスをねだる。
すぐにくっついた唇は、サンジが風呂上りに塗った何かで少しべたべたしていた。
もし、この唇が他の誰かを受け入れたとしたら、自分はサンジをどうするだろうか。
奔放で身軽な所はサンジの魅力のひとつでもあるが、花粉を付けてあちこち飛び回るのを黙って容認できる程寛容じゃない自覚がある。
「……ん、ぁ」
ローは、今度は自分から唇を寄せた。
今更サンジを失う事は考えられない。例え、浮気相手の方が良いと言われようが、ローはサンジを手放す気は毛頭ない。
――であれば、もう少し後でと言われている子供を作るのはどうだろうか。
元よりローの収入だけでも、問題なく生活できる。子供が産まれれば、今のように働く事はないだろう。
家にいる時間が増え、交友関係も変わる。友達の多いサンジが、限られた時間で家族以外に割く時間はどれほどになるだろう。と、そこまで思ったところで、ローは自分がなぜ蝶の標本を思い出したか気づく。
体をふやかし、針を刺し、|翅《はね》を伸ばす。形を整えて乾かして、綺麗な状態で箱に入れる。
ローの愛し方は、昆虫の標本をつくる手順に似ていた。
「――レディにまで……? うげ、おれのダーリンまじで怖ェよ」
「浮気しなきゃいい話だ。簡単だろ」
そのべたつく唇をべろりと舐めると甘いような変な味がした。一度強く吸い付いて、そっと唇を離す。サンジの舌がペロリと自分の口端を舐めた。
ゆっくりと肩を押して、体をソファに横たえる。弾みでサンジの前髪が乱れて、目が隠れてしまった。
「……サンジ」
サンジの腕をソファに縫い付け、ついでに細くて癖の悪い足もローの股の間に仕舞い込む。
腕を掴まれたままのサンジは、ふるりと鬱陶しそうに頭を振り前髪を払った。
「そんな顔しなくても、ん、おれ……浮気なんてしねェよ……」
「……どうだか、普段の行いが悪ィからな」
にやりと笑えば、サンジはなんとも言えない表情で顔を赤くした。ふらふらしている自覚があるならいい。
サンジの緩いパジャマをたくし上げ、腹から胸にかけてをなぞる。
鎖骨を撫で、もう一度胸骨を通り、骨の無いみぞおちに触れた。
『――むねの中心に、ピンをさす』
『垂直に。待て待て、ロー。横から見ると斜めだぞ』
慎重に、慎重に。崩れないようにゆっくりと――。
「……ロー?」
ローはサンジのみぞおちをゆっくりと撫でる。
慎重に、慎重に。柔らかく温かいそこを人差し指でトン、と叩いた。
一生大事にしたい、そういう気持ちを込めて。