It takes twoという2人プレイ専用ゲームがある。
ひょんなことから人形にされてしまった離婚寸前の夫婦を操作して、元の姿に戻るために奮闘するアクションアドベンチャーだ。
様々なギミックを駆使して協力し合いながら先へ進むのが特徴で、非常にクオリティの高いカートゥーン調のグラフィックで躍動感のある世界を楽しめる。
2人プレイ専用ということで、婚約者を誘って2人で意気揚々とプレイに励んだ。
ここまでで経験者はお察しだが、中盤のとあるイベントでガン萎えすることになった。
海外からも批判が殺到した「象のキューティ」のイベントだ。
娘の涙がきっかけで人形にされた夫婦は、「また再び娘が泣けば元の姿に戻れるのでは?」というサイコじみた発想を、なんの根拠もなく思いつく。
この時点で夫婦にあまり共感できないのだが、娘に泣いてもらうために、娘が大事にしていた象の人形を殺せばいいのではないか、という結論に至る。
そう、殺すである。
人形にされた2人には、家具を始め様々な物に命が宿ったように見える。
象の人形とて例外ではなく、アポ無しで訪れた夫婦に対して快く歓迎し、クッキーやハグを与え和ませようとする。
2人が自分を殺害しようとしていることを知ったあとも、キューティは必死に説得を試みながら逃げ回る。
2人はそんな無垢なキューティを追いかけ回し、クレーンで掴み、脚を引きちぎり、耳に針を刺して引きちぎり、さんざん引きずり回した挙句に突き落とすという暴虐の限りを尽くすことになる。
そして、案の定キューティの姿を見て泣き始める娘を前に、バンザーイと歓喜しながら娘の涙を浴びる夫婦。
はっきりいってサイコパスという言葉すら生ぬるい鬼畜である。
誰の目から見ても、こいつらに娘を育てる資格も更生の余地も全くなく、さっさと離婚すべきだと思うことだろう。
一応補足するが、一連の流れはストーリーの流れで必ずやらされる羽目になり、ゲームをやめる以外に拒否権は無い。
Steamのレビューの中には「No Russian(Call of Duty MW2にて、テロリストに扮して無抵抗な市民を虐殺するという、かなり物議を醸したミッション)より悪辣で不愉快だ」というものまであった。
No RussianはWikipediaに専用ページができるほど物議を醸したミッションで、日本では内容が大幅に改ざんされたり、ロシアでは丸々ミッションがカットされる事態になるほどだったが、それよりも不愉快と言わしめるのは相当なことである。
ただただ悪趣味なだけでなく、結局娘の涙では元の姿に戻らないため完全な徒労という、ストーリー展開上全く意味を持たない純然たる不快要素だ。
なぜこんなものを作ったのか
このシーンを目の当たりにした時、僕には2つの考えが頭をよぎった。
「これは、ただ純粋に開発者の感受性が鈍いだけなのか」
あるいは、
「このシーンに意味があると思い込んでいる意識高い系か」
である。
前者は、物に命が宿るという日本人の感性からは理解し難い冒涜をいとも簡単に描く作品が海外にはままあるので、その手の類かもしれないなと最初は考えた。
つまり、「開発者はウケると思ったが、滑り倒してしまった渾身のギャグ」だと踏んだ。
しかし、どうもそれは違うようだ。
開発者はこう語る。
「あれは美しいシーンだった。自分は大好きだ」と述べたうえでこう続けている。「ゲームはプレイを通してプレイヤーの感情を惹起します。みんなよく取り違えるけれども、いい気分が引き起こされたのであればもちろんそれはよいことですし、悪い感情が引き起こされた場合でもそれはゲームのストーリーテリングにとっては良いことなのです」
ははーん、そういうことか。
この記事を読んでから、僕の見解は後者で確定した。すなわち、「このシーンに意味があると思い込んでいる意識高い系」である。
なんの意味もない
僕は、悪い感情が引き起こされるだけのゲームにはなんの価値もないと思っている。
ゲームの語源は勝負事であり、何らかのルールに従って勝敗ないしは成否を判定する遊戯のことだ。
娯楽としての勝負だからこそのゲームなのであり、そこにけったいな教訓や啓蒙を載せるにしろ、それらは副次的な要素であり、メインコンテンツにすべきではない。
もしそれをしたいなら、適した場で適した手段を取ればいいのだ。
皆がゲームとして楽しもうと手に取った中で、いかなる理由があれど純然に悪い感情を引き起こすようなものは、ゲームではなくただの説教シミュレータである。
無抵抗な象を引きちぎる不快感を味わわせたいなら、それが適した場でやればいい。
わざわざゲームという場を使ってゾーニングせず不意討ちをかますのは卑劣極まりなく、そんなものを僕はゲームだとは断じて認めない。
一時的な不快要素
だが一方で、こんな見方もある。
「あくまで一時的な不快要素で、その後にスッキリするために必要なものである」
これも、象に関して言うなら全く理に適っていない。
少なくとも直近の前後で象に関するフォローはなく、夫婦を咎める展開も一切ない。
これまでも夫婦は、過ちを顧みず、身勝手な動機で様々な命を傷つけて回ってきた。
それらへのフォローも当然なく、何だかなあとモヤモヤしていた所に例のシーンである。
「ああ、こういうゲームなのね」と失望するのに十分である。
また、ゲームは映画と違い、中断が前提だ。
すなわち、一区切りした時点ではその感情のみでゲームを判断することになる。
今現在の僕のIt takes twoの評価は「さっさと離婚してほしい猟奇的な夫婦の下品な暴力ドラマ」である。
あれ以降、ゲームを断念したプレイヤーも少なくなかったようだが、当然だと思う。
ゲームは断片的かつ持続的な娯楽であり、最後に解決するからと言って、極端に不快な要素を何のフォローもなく意図的に差し込むのはナンセンスである。
まとめ
そうは言っても、It takes twoはGOTYを獲得し、何百万本と売れたヒットセラーである。
世間から見たIt takes twoは紛れもなくゲームであり、これはあくまで僕個人が認めない、という話だ。
はっきりいって、批評家に媚びたこの手の演出・作品にはうんざりしている。
何ら珍しくもなく、ただひたすらに浅はかで下品で捻りのない逆張りに過ぎず、僕が最も忌み嫌う作品だ。
エンタメは楽しめるからこそエンタメなのであり、その業界に身を置きながらありふれた説教をかまして場を凍らせて物議を醸した気になる、意識だけ高い作品にはうんざりである。
間違っても自分はこんなゲームを作らないようにしないとな、と肝に銘じた。