動画は、バイオハザードシリーズの外伝である「オペレーション・ラクーンシティ」のメインメニューで流れるBGMだ。
歴代バイオの中でもトップクラスにかっこいい。
かっこいいのだが、このタイトルを知る者や、まして遊んだことがある者はシリーズファンの中でも少数と思われる。
理由は単純で、面白くなかったからだ。
このゲームはカプコンの内製ではなく、Slant Six Gamesというカナダのゲーム会社へ外注して作られた。
このメーカーの名を知る者もほとんどいないだろう。このゲームが発売後に酷評を受けたことで、従業員の25%がレイオフに遭い、翌年には最後の従業員が解雇されているからだ。
このゲームのどこがつまらないかは、記事の主題から逸れるので解説しない。今回話したいのは、このゲームのアート・企画面だ。
バイオハザードシリーズは、基本的に主人公がヒロイックに描かれている。一部例外はあるが、大抵はキャラクター単体で人気が出るほどにデザインや性格・設定が作り込まれており、各々の正義のために戦う者が大半である。
対してこちらは、アンブレラ社の傭兵という、完全悪を主人公とした外伝だ。ご存じの方も多いと思うが、バイオにおいてアンブレラ社は全ての元凶と言えるほど巨悪な存在で、ゾンビを始めとする様々なバイオテロが引き起こされた張本人だ。
そんなアンブレラ社が雇う傭兵とあらば、当然彼らもヒーローであるはずがない。
彼らに託された任務は、「アンブレラ社の不祥事を知る人間を抹殺し、証拠を全て隠滅すること」である。バチバチの悪役だ。
プレイアブルキャラ6人は全て新キャラで、全員がコードネームという挑戦的な試み。それどころか、シリーズでも一二を争う人気キャラのレオンも、証拠を握る人物として抹殺対象になっているというシナリオだ。
当時は、発売前からファンの間でも物議を醸すことになった。
人の生き死にが頻繁に発生するバイオハザードシリーズは、従来から黒い側面はたしかにあった。
しかし、ここまで真っ向からドス黒い巨悪を主人公に据えたのは初めての試みで、先ほど紹介したBGMを始め、全体的にアートは厨二臭全開だった。
突撃兵・工作兵・衛生兵などキャラクター毎にジョブが割り当てられているのも新鮮な試みだった。襲いかかる脅威から生存する受動的なサバイバルではなく、自ら死地に赴き殲滅を試みる能動的な戦闘を重視した作風になっていた。
が、ゲームとしては相当にお粗末な出来だったことも先ほど書いた通りで、事実上この作品はシリーズの黒歴史として闇に葬られてしまった。
カプコン側もアンブレラの描写に未練があるのか、「アンブレラコア」「レジスタンス」など何度か再挑戦を試みてはいるものの、全てクソゲーのレッテルを貼られてしまった。
基本的にカプコンの方針をべた褒めしている僕ではあるが、こと対戦ゲーム(格ゲーを除く)や銃撃戦が主体となるゲームに関しては、昔からお世辞にも出来が良いとは言い難い状態にある。
オペレーション・ラクーンシティも、そんな闇に葬られてしまった作品のひとつである。
しかしだ。
心から楽しんで遊んでいる者も確かに存在するし、僕のように今でもBGMを思い返して記事にするぐらいにはアートに惹かれた者も、少なからず存在する。
よく「既存のゲームを模すぐらいなら、元となったゲームを遊べばいい」という言説を耳にするが、愚の骨頂である。
替えが利かない刺激に出会っていないからそんなことが言えるのである。
サ終してしまった・ハードが古く配信もされていないので遊べなくなってしまったゲームに出会っていないから、遊べばいいなんてことが言えるのだ。
そもそも、いくらコスパがいい娯楽とはいえ、ゲームにも明確な賞味期限がある。
同じゲームばかりを噛んでいたら味がしなくなるし、当時だから遊べた代物だってたくさんある。
名作のリメイクがヒットするのはそういうことだ。
また、代替の利かないアートのみに惹かれてしまった場合も、同様に「遊べばいい」は論点のずれた指摘だろう。
「あの時代は良かった」は確かに老害の発言だが、その発言に「じゃあその次代に戻ればいい」はなんの解決にもなっていない。戻れるなら戻っているのだ。それができないから嘆いているのである。
幸い、日本は今後も深刻な少子高齢化になることが約束された国なので、無理に若々しくあろうとする必要はない。
が、老害は自分が知らない・経験していない物事に対して不寛容になりがちだ。
元のゲームを遊べばいいじゃない、も乱暴に片付けるなら耄碌からなるものだ。「LINE?電話でいいじゃない」と本質は同じだ。
そうやって謗っている僕も、耄碌した老害のことをよく知らない。実際に無知蒙昧を指摘される年齢になれば、軽率な無知をひけらかす人の気持ちも分かるのだろうか?