推し活という言葉が生まれて久しい。 ずっと前からオタクを続けてきた身としては違和感が拭えない言葉だが、時代の流れなので迎合しようと思う。
しかし、僕はゲームクリエイターであり、推される立場でもある。
推し活と言うと作品やキャラクターを推すのが普通だが、マニアックな人だと作者を推すケースも少なくない。
平沢進や小島秀夫など、ゲームを問わず唯一無二の作家性を発揮するクリエイターであることが多い。
僕自身も、映画監督であるM・ナイト・シャマランを推している。
しかし、だ。
僕自身を推すのは、あまりおすすめしない。
人として推すのは論外だが、ゲームクリエイターとして推すのも同様にだ。
作者ではなく作品を見てほしいからというのが理由だが、もう一つある。
僕が気まぐれな人間だからだ。
作品ないしキャラクターというのは、手を加えない限り不変の存在である。推す対象として非常に安定しており、解釈不一致が起きにくい。
対して作者というものは、結局のところ一人の人間だ。
作家性が変わることもあるし、スランプに陥る時も、最悪筆を折ることだってある。
ただでさえ不確実な「人間の作家」、それも気まぐれな僕を推すというのは、数年先の失望を確約されたようなものだと僕は思っている。
無論、悪いのは失望したファンではなく、期待に応える器量がない僕の方だ。
作家性を揺らがずにずっと磨き続け、ファンの期待に答え続ける作家は凄い。さながらアイドルのようだ。僕には到底できっこない。
僕がやりたいことは年月と共に変わるし、確固たる作家性などそもそも無い。
僕は自分のやりたいように作るし、それが毎回ファンの好みに刺さるとも思っていない。
弓猫のゲームだから間違いがないだろう!と期待してくれるのは嬉しいが、推しの対象が作者だと、好みに合わない新作を前に素直にNOを突きつけにくくなる可能性がある。
かつて、作品に感銘を受け、作者ごと好きになったことがあった。
作者の作家性や創作理念が好きになり、本人に認知される距離で応援していた。
しかし次第に作者は別路線に進み始め、僕の好みからは逸れていった。
その人なりにやりたいことに全力投球していたので、作者を推す身としては嬉しかった。
しかし、作品自体はやっぱり好きになれない。
好みでは無い作品にNOと言いづらくなり、触れないのも何だかなと義務感で楽しもうとし、余計に拒否反応が出た。
そして最後には、そっと作者から離れた。
これは、僕が悪い。
作者を推すことで作者から認知される。その事実に喜んでいた節も否定できない。
静かに、遠くから、可視化できない形で推せば良かったのだ。心の中でそっと応援していればいい話だった。
ここまで落ちぶれた僕を推す人が現れるとはあまり思えない。逆に言うと、その前までは、少ないけれど距離の近いファンはいた。過去形だから、今はいない。
僕を推すなら静かに、遠くから、ひっそりとでお願いしたい。
ファンに啓発するのではなく、僕が気をつければいい話なのだけど、応援してますと言われるとやはり舞い上がってしまう。
ちなみに、作品やキャラの推しは大声で構わない。宣伝になるので。
ファンができる前から気の早い話だが、もう距離感を間違えて失うのは不本意だから。