表題は、僕の大好きな映画「アメリカン・サイコ」からの引用。
Amazonプライム・及び当時買ったブルーレイの字幕から引用しているが、今U-NEXTで見ると「不断の鋭い痛み」と訳されている。
演者のセリフを聞く限りU-NEXT版のほうが原文の意味に近いようだが、Amazonプライムのほうが味があって好きだ。
閑話休題。
アメリカン・サイコを初めて見た時、僕は何が何だか分からなかった。
今まで見たどの映画の型に当てはめることもできず、何が言いたいのか、何が起きたのか理解できなかった。
考察やレビューを漁って理解を深めていくに従い、ケレン味のある軽快な映像からは想像もつかないほどに冷たいメッセージが浮かび上がってきた。
タイトルからして猟奇的なサスペンス・スリラー映画だと思うかもしれないし、実際そのようなシーンも無いことは無いが、それは本質ではない。
アメリカン・サイコは、人間の内面の重要性を説く映画だ。それを皮肉的に描くため、作中では登場人物の内面がほとんど描かれない。
そして、誰しもが皆、他人の内面に興味を持たない。
皆が皆、名刺の紙の質や有名レストランで予約を取れたかどうかで格を競い合うばかりで、その人がどういう人間なのかにはまるで関心がない。
それは主人公とて例外ではなく、彼は猟奇殺人鬼であるという内面に悩まされつつも、それを告白する手段を持たない。
次第に主人公の殺人は、まるで誰かに気づいて欲しいかのような懺悔にも似たパフォーマンスの様相を帯びるが、無関心社会は彼に興味を示さないどころか、厄介事に巻き込まれたくないがゆえに進んで事件を隠蔽し始める。
殺人に使われた血まみれの部屋は、事故物件にされたくない大家が内密にリフォームしてまっさらになる。弁護士に依頼するも、はぐらかされて逃げられる。
自己の内面に苦悩し、罪を懺悔したいが、罰はどこまでも主人公を回避し続け、冷たい無関心社会の一員であることを強要する。
本当の自分とはなんなのか。あなたが知るよりも、自分はもっと醜いのに。
誰しも一度はそんな悩みを抱くものだが、アメリカン・サイコはそんな苦悩に対し「社会は個としてのあなたに関心などない」という、否定よりも冷たい無関心で突き放している。
突き放された主人公が最後に何を見出すか。ラストシーンの静謐で鋭利な映像は僕の心を深くえぐり、何年も自分の人生の意義に苦悩し続けることになった。
誰かに理解してほしい。寄り添ってほしい。しかし、どれだけ自分が訴えても、たとえ理解しようとする者が現れても、その溝は決して埋まることはなく、理解などされないし永遠に孤独だ。
その事実を認識した主人公の独白が、先の「僕の痛みは鋭く永遠に続く」である。
興味を持ったなら、是非見てほしい。できれば、字幕で(現在プライムで無料で見られるのは吹き替え版だけ)。
ネタバレはしたが、それありきで見てやっと咀嚼できるぐらいには難解な映画だったし、実を言うとさらに奥のメッセージも多分に込められている。
僕が話したのはアメリカン・サイコにおけるほんの表層に過ぎず、その先にはまた幾重ものアイロニーが折り重なっている。
その中身までここで語る日が来ることは恐らくないが、そこまで掘り下げて楽しむ人がこの記事によって一人でも現れるのなら、僕も溜飲が下がる。
人間の内面をえぐり出す映画に関心を示す。
それは、無関心社会への抵抗に他ならないからだ。