ドラゴンズドグマとかいう麒麟児

弓猫
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最初に断っておくが、この記事は「ドラゴンズドグマ2の炎上の顛末を解説した記事」でもなければ「ドラゴンズドグマ2を批判・あるいは擁護する記事」でもない。

純粋に、発売される前からファンだった僕との間で生じる、僕から見たドラゴンズドグマという存在と、ゲームの今後を思い描いた記事である。

煮え湯を飲まされ溜飲を下げたい多くのドグマ2プレイヤーや、対岸の火事とばかりに炎上を楽しみたい野次馬たちのニーズには答えられない。

あくまで、僕の中の世界に存在するドラゴンズドグマを語る記事だ。

前作を楽しみ尽くした方には、僕が何を言っているか理解できると思う。

自分の中だけに存在する妄想を楽しむゲームでもあるからだ。

これは、そんな人に向けた記事である。

麒麟児であり忌み子

2012年に発売されたドラゴンズドグマは、まさしく時代を5年、いや10年は先取りした麒麟児だった。

当時のオープンワールドは「規模の大きさ、物量の多さ、やれることの多さ」ばかりが重要視されており、ゲーム本来の面白さや密度が大きく欠けていた。

そんな中、規模が小さくとも、物量が限られていても、丁寧に作って濃いゲーム体験にすれば面白いのだという理念を元に出てきたのが、初代のドラゴンズドグマだ。

無論、当時猛威を奮っていたスカイリムも多分に意識したと思われるが、ディレクターの伊津野氏はドラクエを研究したとも語っており、古くからJRPGにある「計算された手作りの面白さ」をオープンワールドに持ち込んだパイオニアであるとすら言える。

解像度の高さばかりが評価される中、色彩やライティングで情緒溢れる絵作りをし、アグレッシブなエモーショナルな動きとエフェクト・音楽でドラマチックに戦闘を演出した前作は、発売当初こそスカイリムと比較して酷評されたが、今では唯一無二の名作として真逆の評価を得ている。

そして同時に、多くのゲーマーに「オープンワールドは無闇矢鱈に規模を広げればいいわけではない」ことを分からせてしまった忌み子である。

規模が大きければそれで良かった者だけが楽しめていたオープンワールドというジャンルに、ドラクエを始めとしたJRPG好きも加入してよりワガママなニーズに応える必要がでてきた。

「規模を大きく、密度も濃く」なんて、メーカーからしたら相当にわがままだ。

そんなわがままに、中途半端に応えてしまったのだ。もう後には退けない。

ポーンのシステムも、当時にしてはあまりに斬新すぎた。

何年も後に後続のプラットフォームでリリースされたFF15の技術解説書には「アクションゲームにおける、喋って同行する味方を作ることの難しさ」が語られている。

それでも自分たちはやるんだと強い意気込みをもって作られたそうである。

それを、国内の主要メーカーでいち早くに、前世代のプラットフォームで、新規タイトルとしてやってのけてしまったのだ。

それも、目立ったバグもなくである。

画期的と言ってもまだ言葉が足りない。

決められたストーリーをなぞるわけではなく、自らが赴いた先でリアルタイムに様々なドラマが起こり、そこに臨機応変な行動をとり、感情豊かに話しかけてくる、自分で作れるNPC。

ポーンシステムに魅了されたプレイヤー達は、その後どのゲームを遊んでも替えが利かないことに絶望し、2が発売される12年後までずっと前作の狭いフィールドをポーンと共に過ごすこととなった。

ドグマ2

満を持して発売されたドグマ2だが、はっきり言って僕はあまり楽しいと思えない。

楽しい瞬間ももちろんあるが、前作のように斬新な楽しさが連続していた頃と比較すると遠く及ばない出来だし、当時の新鮮さを抜きにしてもやはり前作と比較して良さが失われてしまったように思う。

PC版の最適化不足の話ではない。主にゲームバランスの話だ。

前作と今作の共通点はたくさんあるが、「不便さを楽しむ」というコンセプトもそのひとつだ。

ディレクターが明確にそう語っている。

しかし、前作には不便なりに「ならばこうしよう」とプレイヤーが自ら対策を練り、能動的に冒険に駆り立てる楽しさがあった。

いわば「冒険するための不便さ」である。

ファストトラベルできる箇所に制限があったり、アイテムを持ち込みすぎると動作が緩慢になったり、夜になると周りが見えなくなるほど暗くなる、などだ。

ファストトラベルの不便さは、効率的なルート構築や「ついでにこれも済ませておきたい」といった欲張りとそれによって生じるアクシデントを楽しめる。

アイテム重量制も回復アイテムを持ち込みすぎないようにするスリルを楽しめるし、夜になると周りが見えないことで、目の前に強敵が現れた時のインパクトが絶大なものになる。

夜になったから帰ろう、逆に夜にしか出ないモンスターを倒しに行こうといった駆け引きも生じる。

対し2は、必要のない不便さや、駆け引きの生じない避けられぬ不便さが散見する。

わかりやすいものだと、金欠だ。

2は宿屋の料金が非常に高く、安全な街に帰れたのに宿泊できないなんてケースも珍しくない。

しかも、被弾すると最大体力値が減る仕様は前作通りだが、今作ではアイテムを使っても回復できなくなり、宿に泊まるかキャンプしない限り戻らなくなった。

宿泊もキャンプも非常に貴重なリソースを消費するので、慎重な選択を求められる。

結果、最大体力値が減ったまま渋々外に出て、案の定強敵にやられて死ぬ事態が多発する。

直前からリトライすると更に最大体力値が減るため、負ければ負けるほど何も得られないまま加速度的に不利になっていく。

キャンプに至っては、たまにモンスターの襲撃にあうこともあるぐらいだ。

こうなるともう最悪で、夜になったまま、体力も戻らず被弾し続け、キャンプ設立に使った使い捨てアイテムは戻らないという、ひたすら不利になるだけのペナルティが課される。

ファストトラベルはもっと不便になり、遠出するとおいそれと帰ることはできない。

つまり、今作は下手に冒険に出ると休息も帰還も許されないという詰みの状態になりやすく、そこから抜けるには、ゲームオーバー時に「最後に泊まった宿屋に戻る」を選ぶ他ない。

最後に泊まったのが2時間前なら、そこまでセーブデータが巻き戻るわけだ。

そして、宿代が高すぎて泊まりたくても泊まれないまま冒険に出ることが多いのも、先ほど話した通りである。

いわばドグマ2は「冒険が億劫になる不便さ」なのだ。

前作が「目的のための目的のための目的……」と、不便さを起点にやるべきことがループしていく楽しさがあり、結果的に様々な場所を徒歩で踏破する遊び方になる。

対して2は「下手に動くと詰むから、計画性のないぶらり旅は避けるべき」という、前作と真逆の窮屈感を与えてしまっている。

金と体力という異なるリソースが互いの足を引っ張りあって冒険を阻害しており、そこに前作では面白さとして機能していたファストトラベルの不便さが裏目に出てしまっている。

現在、カプコンはSteamでの低評価を受けて最適化不足を最優先事項に対策を進めているが、より深刻な問題はバランス調整不足にあると思われる。

率直に、ゲームとして窮屈なせいで遊ぶ気が失せるのだ。

あれもダメ、これもダメとペナルティばかりで迂闊な行動が取れず、渋々選んだ行動が更なるペナルティを呼び「ケチるからこうなるんだ」と言わんばかりにやり直しを強要される。

ケチるのではなく、そもそもシビアすぎて選択できないというのに。

となると、あとやるべき事と言えばクエストを消化することぐらいで、今は気乗りしないのになぁと項垂れながら、不便なクエストマーカーを追いかける作業が始まる。

このクエストマーカーも、本来なら「マーカーを追いかけるだけの作業にしたくない」という意図からだろう。

しかし残念ながら、ペナルティなく行動できる選択肢がクエストしかないので、イヤイヤやらされているクエストの負担がさらに増えてしまい、これもまた悪目立ちしている。

気ままに冒険した先でたまたま討伐対象がいる楽しさも、今作では向こうから強制的に話しかけて受理されるクエストを、不便さに耐えながら追いかけるばかりだ。

もはやTo-Doリストに追われた現代人と大差なく、非常に苦痛だ。

では、アクションはどうか。

これは肯定意見の方が多いが、僕はあまり好きではない。

本作は物理演算を多用しており、リアルな動きを追求している。

悪く言えば現実的でもっさりしており、些細な段差でいちいちアニメーションが差し込まれたり、やたら旋回性能が悪かったりする。

分かる人向けに言うと、要らない作り込みを追求して大不評を食らったバイオ6と同じ轍を踏んでいる。

物理演算により流動的によろけるのは興味深い試みだが、結局は押して倒すぐらいしか戦略性はなく、全てを手作業で作りこんでいた頃の方がルールが明確で面白かった。

エフェクトとグラフィックは進化したので迫力は満天だが、逆に言うと良いのはそれぐらいだ。

技の性能も色々と劣化しており、産廃が無くなった代わりにぶっ壊れも無くなり、マイルド調整になった。

リアリティはあるが、インフレを考えてゲームを攻略する楽しみは失われた。

ジョブも、比較対象にするのは良くないがDDONを知る身からすると面白みに欠ける。

結局はワンパターンな行動の繰り返しになり、派手に見える画面に反して手元があまり忙しくならない戦闘になる。

前作もワンパターンが強いところは改善の余地があったので神格化する気はないが、12年振りならもっと変わり種なジョブやスキルを多めに用意してくれても良かったように思う。

しかし、僕はドグマ2が好きである

ここまで散々貶しておきながら、僕はドグマ2が大好きで、目が離せない。

なぜなら、さっきも少し書いたように、ドグマはいつだって、リリース当初は叩かれてきたからだ。

初代も、DDONもだ。

初代だって、何度もアプデを繰り返し、ボリューミーなDLCを出し、完全版が出てようやく名作になった。

当時は先鋭的すぎて理解されなかった不便さも、時代と共に求められるようになった。

ドラゴンズドグマは、表向きは非常にレトロで古めかしいだけのゲームに見える。

しかしその本質は、擦られすぎてクリシェと化してしまった古典的な面白さにメスを入れ、古き良き楽しさを残しつつも鋭利に磨かれた斬新さで突き刺してくる前衛的で挑戦的なゲームシリーズである。

そんなものをライブサービスとして運営したものだから、DDONもサ終して当然である。

初代は、その面白さが一目見ただけで理解できた。

オープンワールド慣れしたゲーマーが嘲笑する中、何も分かっていないと一人孤独に遊び続けながら、どこかの誰かが今も同じ楽しみを共有しているという繋がりを、ポーンを通して実感していた。

今回も、同じかもしれない。

すっかりオープンワールド慣れしてしまった僕に、再びドグマは鋭いメスで斬りかかってきたのかもしれない。

オープンワールドを避け続け、ようやく今作から手に取った者には、また新しい楽しさが見えているのかもしれない。

前作は12年遊んでなお色褪せない名作だ。

今作は、果たして何年経てば時代が追いつき、僕も理解できるようになるのだろうか。

そんなことさえ思ったりする。

クリエイターとして

僕は、個人で活動するしがないゲーム開発者でもある。

クリエイターの観点からも、ドグマ2は注目していた。

発売してまず感じたのが、ホッと胸を撫で下ろした気分だ。

12年待ち望んだ新作を楽しめない。

本来なら阿鼻叫喚だが、不思議と僕は嬉しかった。

最近、何のゲームで遊んでも目新しさを感じずつまらなく感じてしまう中、理解の範疇を超えたものが出てきたかもしれないという高揚感だけではない。

結局のところ、僕はドグマ2を楽しめてないし、今の僕はこのようなゲームを望んでいない。

つまり、「僕ならこうする」が浮かびやすいのだ。

ゲーム作りに必要不可欠な考えである。

前作を見よう見まねで作ることができただけでも、唯一無二のニーズを生み出せるというわけだ。なにせ本家が方針を変えてきたのだから。

そしてもちろん、僕にそんな技量はない。

安心して参考にすればいいし、懐古主義に浸るだけでニーズに応えられるのだ。

こういうものを望んでいたのにという不満を、自分で形にすればいいのだ。

これが、非の打ち所のない完璧な出来栄えだったら、創作意欲を失いかねない。

自分でユートピアを築かずとも、消費者として受容するだけで満たされてしまうからだ。

前作同様、相も変わらず不完全なゲームで良かった。

前作も、光る点はたくさんありつつ、改善点は尽きなかった。

だからこそ、ずっと新作が渇望されていた。

願わくば今作も、最終的に僕がそう思える立ち位置に収まってほしい。

@yumineko
個人ゲーム開発者。開発の進捗は ci-en.dlsite.com/creator/20437 にて