先日、僕の敬愛するM・ナイト・シャマランの最新作が公開されたので、さっそく鑑賞してきた。
かんたんな紹介
良き父として振る舞う一方で世間を賑わす猟奇殺人鬼である主人公クーパーが、FBIの包囲網からあの手この手で抜け出そうと画策する頭脳戦を描いたスリラー映画。
最大の特徴は、娘とともに訪れたライブ会場&タレコミを聞いて駆けつけたFBIという舞台であり、純粋にファンとして訪れた娘にも、プロファイラーまで用意して駆けつけたFBIにもバレないように脱出する必要がある。
気になる人は本編を見てもらうとして、以後はネタバレありの感想と考察をつらつら書いていく。
感想
一言で表すなら「不満は多いが、嫌いにはなれない映画」だった。
ライブ会場からの脱出という題材は面白いし、それを生かした展開も多数繰り広げられる。
主演のジョシュ・ハートネットの怪演は見ていて虜になるし、トラップという題材にふさわしいほどに幾重にも罠が張り巡らされている。
しかし、想定していた面白さはなく、予想外の方向に転がるもののそれも消化不良感が否めなかった。
原因はいくつかあるが、最大の戦犯はなんといっても監督の娘さんであるサレカ・シャマランの存在である。
一部ではサレカのプロモーション映像と揶揄されるほどにライブシーンが長い。
監督の指示でそれぞれの歌詞に展開に合わせた意味が込められてはいるものの、それにしたって長い。
それだけに飽き足らず、ストーリーの展開にもゴリゴリ関わってくる。家族にも世間にもクーパーの正体をバラした上に、人質まで解放してFBIまでよこすのは、どう考えても無双がすぎる。
シンガーソングライターであるサレカのライブシーンは、劇場で見たのもあって圧巻の出来だったが、役者ではないため演技はお世辞にも上手いとは言えなかった。
容姿に関しても、化粧が濃すぎてあまり愛着の湧くものではない。
それらの不満要素に「監督の愛娘」という属性も加わって、本作最大のヘイト対象となってしまった。
その一方で、シャマランだからこそ表現できたものも少なくない。
特にフライヤー爆破のシーンは、さすが視覚的なグロさに頼らず精神的に追い詰めてくるシャラマンだなと唸らされる。
精神的グロ映像で矢継ぎ早に観客を追い詰めるオールドの頃から、全然衰えていない。
また、良き父でありながら切り裂き魔という二面性を備えたクーパーという主人公の人物像も、見ていて飽きのこない奥深さがあった。
正直言って、主人公の掘り下げ具合とテーマに限って言えば、過去最高と言えるほどに切れ味があるように思う。
だからこそ、娘さんの蛇足な描写に尺を取られ、もっとやれたであろう監督の持ち味が生かしきれていないのが残念でならなかった。
考察
ここからは、僕が気づいた範囲で作品の意図を汲み取っていく。
まず、本作のテーマについて。
いくつか考えられるが、一番感じたのは「完全という名の抑圧」である。
クーパーは「良き父という完全な仮面」で、「切り裂き魔という不完全な本性」を抑圧している。そのルーツは、幼少期の頃に母から受けた「完全であれという教育」に抑圧されたからである。
何らかの原因で殺人鬼としての衝動を開花させてしまった主人公は、完全な母に何度も抑圧された末に見捨てられてしまう。
その結果、主人公は不完全な自分をひた隠すための完全性の獲得に躍起になる。
父として娘に向ける仕草が薄ら寒いのは、決してシャマランの親子の解像度が荒いからではなく、クーパーに親子愛など微塵もないことをほのめかしている。
事実、クーパーが娘の安否を気遣うような描写は一度も出てこない。彼が娘と脱出したがるのは、そうしないと父としての行動として不完全になってしまうからであり、追い詰められた末にそれすらもかなぐり捨ててどうにかしようとする描写も散見される。
それどころか、娘を利用して脱出しようとする場面も少なくなく、彼にとって家族という存在は、自分を完全に見せるための単なる道具に過ぎないことが伝わってくる。
そんな主人公を追い詰める、完全な包囲網。蓋を開けてみればザルすぎるわけだが、これも裏を返せば何年にもわたって完全からの抑圧に抵抗してきたクーパーのほうが上手だったということかもしれない。
そして何より印象的なのが、全てにおいて完全を極めるレディ・レイブンというアイドルの存在だ。

娘を食ってしまうほど存在感の大きかったレディ・レイブン。
作中でも「完全であろうとするお前を見ていると腹が立ってしょうがなかった」といったニュアンスの台詞が出てくる。
愛着が持てないほどの完全な厚化粧。不自然に押し付けられる完全なライブパフォーマンス。やりすぎなほどに完全な事件解決。
おそらくだが、レディ・レイブンは意図的に不愉快に見えるように作られている(だとするなら、愛娘を使って不愉快さを描こうとする監督の性格の悪さには脱帽するしかないが)。
完全だけを突き詰めたものはこうも受け入れがたいものなのだということを、あの手この手で伝えたいのではないかという意図を感じる。
完全なアイドルが歌う、完全なライブ。それを取り囲う完全な包囲網。
これは主人公クーパーが、完全であろうとする空間からの解放を目指す物語である。
クライマックスでその意図が明かされるとおり、FBIの凄腕プロファイラーは、完全であれと抑圧する母のメタファーだ。
完全な存在であるレディ・レイブンも、裏では吸引薬を服用するほどに不完全な体を酷使している。
完全な包囲網であるFBIやプロファイラーは、何度もクーパーを取り逃がす。
完全な罠として用意したはずのカードや合言葉も、あっさり突破される。
完全な父であろうとするクーパーは、娘に怪訝がられるほど不自然な態度になる。
本作の「完全であろうとするものは、その実不完全になる」というディストピアめいた皮肉は、あらゆる場面で徹底されている。
こうして、完全な家族であろうというクーパーの抑圧された生活も、妻からの疑念というトラップによって終わりを迎える。
クーパー自身もまた、完全な二面性を演じ分けようとした末に不完全に飲まれてしまうのである。
クーパー演じるジョシュ・ハートネットの演技は、見事という他ない。
無論、サイコな笑顔が怖いというのもそうなのだが、ライブ会場を抜け出すまでの彼の表情に、ほとんど二面性が感じられないのだ。
捉えた人質を確認する時も、フライヤーで女性の顔に大火傷を負わせる時も、さりげなく女性を階段から突き落とす時も、彼の表情には全く変化がない。
ごく自然と、父親とも切り裂き魔とも取れない普通の顔で犯行に及ぶ。
その一方で、完全な父であろうとする時には不自然なほどの笑みを浮かべ、娘にも「なんか変」と言われる程度に奇っ怪な言動を繰り返す。
完全であろうとした瞬間に、まるで別人であるかのように嘘くさい表情になる。
レディ・レイブンを楽屋で脅迫する時の凶悪な笑顔に魅せられた人も多いだろうが、あれも彼の本性ではない。
あくまで、レディ・レイブンを怯えさせるための過剰な表情作りである。
事実、妻との食事やレディ・レイブンを車に乗せる時など、追い詰められて本性を顕にしている時は、ほとんど無表情である。
監督から細かい指示があったのだろうが、その意図を完璧に汲み取って演じ分け、繊細かつ多彩なクーパーを見事に表現した彼の演技力には、感服させられてしまうばかりだ。
最終的にクーパーが解放されて嗤うシーンで終わるのには、警察・家族どちらの完全からも解放され本来の自分を取り戻せたというハッピーエンドとしての見方もあるし、完全からの抑圧を続けた末に完全な父親像を失ってしまい不完全な猟奇性ばかりが残り壊れた人間になってしまったというバッドエンドとしての見方もある。
いずれにせよ、完全であろうとする抑圧への否定を描いていることには違いない。
まとめ
まだまだ拾い切れていないメタファーや意図も多そうだ。
見終えた直後には「娘愛が過ぎるくだらない映画」と切って捨てたくなったが、後でじわじわと効いてくる地味で分かりにくく、しかし確実に攻撃性の高いメッセージが汲み取れてくる。
本作は分かりやすいスリラー映画としての皮もかぶっているからか、オールド等に比べると悪くない滑り出しのようだ。
スプリットにも言えたが、今後はセンセーショナルな題材の中に性格の悪いメタファーを仕込む作品が増えるのかもしれない。
相変わらず、シャマランの作家性が健在で安心した。
もう二度と娘さんを起用しないでもらいたいが。