かつて、アルフレッド・ヒッチコックという映画監督がいた。
映画好きなら知らない者はいないほど有名な反面、40年以上も前に亡くなった方なので、映画に特段興味のない人はほぼ知らないという、二極化された知名度を持つ偉人である。
スリラー・サスペンスの手法を確立させた功績者で、全て挙げるのは難しいが、中でも最近知った手法である「マクガフィン」について取り上げてみる。
マクガフィンとは
マクガフィンとは、雑にまとめると「本筋とは関係のない動機」のことだ。
シナリオを手がけたことがある人なら頷いてくれるはずだが、物語の主要人物、こと主人公においては、物語を前に進めるための動機が不可欠である。
竈門炭治郎なら妹を治療するため、モンキー・D・ルフィなら海賊王になるため、野比のび太はその回ごとに「ジャイアンとスネ夫にギャフンと言わせたい」「ママに怒られたくない」などが都度設定される。
ただ何となく、なんの目的もなくそこに存在するだけの主要人物しかいない物語では駄作にしかならないことは、容易に想像できるだろう。
マクガフィンが大事なのは、動機の部分ではない。そんなものはあって当然だ。
「本筋とは関係の無い」の部分が重要なのである。
ヒッチコックが「別の動機に置き換えても成立するようなものであるべき」「物語の進行に合わせて重要度を低下させていくべき」と言うくらいには、本筋と関係ないものだ。
ここで誤解しないでほしいが、「本筋に関係ない動機ならなんでもいい」わけではない。
スリル溢れるスパイアクションの脚本を考えるとして、主人公の動機を「化粧崩れを直したい」に設定し、延々と自室の洗面台と化粧台を往復するだけの画を作ればいいわけではない(そこから話を広げることも不可能ではないが)。
例えば、スパイアクションの脚本で示したい本筋が「愛が人を強くする」だとする。
主人公は国際スパイだが意気地無しで、表の顔も離婚調停中のしがない旦那。
スパイ活動のほうも身が入らず、次失敗したらクビだという。
しかし、テロ組織に妻を人質に取られることで、主人公は火事場の馬鹿力を発揮し、見事テロ組織を撃退し妻を救い出し、離婚もクビの話も解消されるが、主人公は妻を大事にしたいため辞表を提出しハッピーエンド。
ひどくありきたりだが、こんな脚本だとする。
この際マクガフィンは何になるかと言うと「テロ組織とのスパイアクション」である。
この脚本の本質は、「意気地無しが愛するもののために強くなる」であり、テロ組織とのスパイアクションは代替可能だ。
そして、愛のために強くなれることを示すためであれば、夫婦は必ずしも生還する必要もない。「旦那スパイがテロを食い止め人質の妻共々生き延びる」という動機は「余命1ヶ月と分かった妻に旦那が臓器提供を決意する」でも成立する。
また別のマクガフィン
厳密な定義を知る者が僕の解説を読むと、ツッコミを入れたくなることだろう。
ヒッチコックにおけるマクガフィンとは、もっと重要度の軽いもので、本人は手法として認識していなかった可能性すらある。
これも有名だが、ヒッチコックが「汚名」の脚本を考えた時、「ウラニウムが入ったワイン瓶」に難色を示したプロデューサーに「ウラニウムが嫌ならダイヤモンドにしましょう」と提案したという逸話がある。
ヒッチコックにおけるマクガフィンとは、怪盗ならダイヤ、スパイなら密書といった、本筋とは関係のない釣り餌のことを指している。
観客がそのマクガフィンの中身に気を取られて本筋に集中できなくならないよう、中身に触れるのはごく簡単なものでいいというスタンスを取っている。
しかしこのスタンスに関しては、以降の映画では否定されてきた作品も多い。
例えば、これまた著名な「インターステラー」では、本筋と関係のない物理法則への描写や解説にかなりこだわっており、専門家に監修を受けているほどだ。
そして(僕はあまり好きでは無いがそれはさておき)、本筋に直接関係のないその物理への深いこだわりが、高評価の一因でもある。
僕が解説したマクガフィンは、ヒッチコックのそれを少し変化させた、ジョージ・ルーカスのそれである。
彼が言うには「マクガフィンとは、まるでヒーローと悪役の決闘シーンのように観客を虜にするものでなければならない」とのことである。
つまり、ヒッチコックとしては「本筋に関係ないからどうでもいいよ」という例えで用いたマクガフィンだが、ジョージ・ルーカスは「作品を際立たせる客寄せパンダとして利用し、本筋を上手く隠したり、分かりづらくセールスポイントに欠ける本筋に強力な肉付けを与えるものにしよう」というわけだ。
「愛が勝つ」を直接セールスポイントにしても、説教臭いし在り来りすぎて手に取られにくい。
それを、刺激的で目の引く無関係なセールスポイントで装飾することにより、観客自身に終盤で気づかせて納得してもらおうと言うのが、(恐らく)ルーカス率いる後続のクリエイター達の見解であると思われる。
スリラー・サスペンスとしてのマクガフィン
ここからは「キューブ」「ブレードランナー」のネタバレになるので、まだ見ていなくて楽しみたい人や、ネタバレ上等な人以外は引き返してほしい(ブレードランナーはネタバレになるか怪しいレベルだが、一応念のため)。
スリラーやサスペンスにおいては、その要素自体ほとんどがマクガフィンである。
キューブにおけるマクガフィンは、言わずもがな「立方体の部屋がどこまでも連なる幾何学的な設備からの脱出劇」だ。
そして本筋は「人間の愚かさ」である。
連なる部屋の中には、たまに殺人トラップが仕込まれている。
部屋の形は皆同じで見分けがつかないが、それぞれ異なる色が割り振られており、接続口には謎の9桁の数字も刻まれている。
どの部屋が即死トラップ部屋なのか。
なぜ、誰の手によって閉じ込められたのか。
閉じ込められた者たちの共通点はなにか。
無事に脱出できるのか。
これら、ワンシチュエーションスリラーのお約束とも言える要素全てが「マクガフィン」である。
なぜなら、実際に部屋のトラップで死ぬ人間は、冒頭のモブを除けば1人しか存在せず、後はみな疑心暗鬼になって殺し合うからだ。
閉じ込められた理由も「何らかの巨大なプロジェクトでこの設備が作られたが、皆お役所仕事で自分が何をやらされているか理解しておらず、責任者が変わり続けて本来の目的を知るものがいなくなり、いつの間にか完成していつの間にか自分たちが放り込まれただけ」という、「明確な理由が存在しない不条理」というオチであった。
これは、ITや政治などを始めとした大きなプロジェクトでよく耳にする失敗例であり、先の殺し合いの件も含め、どちらも本筋は「自らの首を締め続ける人間の、大衆の愚かさ」だ。
やっとこさ出口を前にしても「外に出てもやることがない」と膝をついてうなだれてしまう者が出てくる。
別の者が「外には何がある?」と聞くと「救いようのない人間の愚かさ」とだけ返してくる。
そして「それでも生きるんだ」と前を向く者と、その者に感化され最後の力を振り絞り立ち上がった者も、どちらも生き残ることはできなかった。
最後にただ一人生き残ったのは、冒頭からずっと呻いて引っ張り回されるだけの存在だった、サヴァン症候群を患った精神障害者だ。
協力し合えばほぼ全員が助かるはずだった場所で醜く争いあって殺し合い、最終的に「救いようのない人間の愚かさ」に向かい歩き出すことができたのは、人間社会が障害だと判定した者だけだったという、どこまでも人間の愚かさを徹底して皮肉った脚本である。
しかし、この映画が注目されたのも、今に至るまで語り継がれるのも、共に「四方八方に連なる即死部屋からの脱出劇」というマクガフィンがあるからだ。
ヒッチコックのマクガフィンと比較して、後続のスリラー・サスペンスのそれは、一見すると「そこを置き換えたらもはや別作品だよ」と言えるぐらいには本筋に関わっている。
ジョージ・ルーカスが再定義して時の人となったことから分かるように、描きたい本題とは関係なくセールスポイントとして活用できるからだ。
なんなら、観客からすると描きたい本筋こそがマクガフィンと化しているように錯覚してしまう。
しかし、もし本質的なテーマがないままセールスポイントだけで突き進むと、独創的であれば高く評価されるかもしれないが、大体は浅い作品として短期的に消費されて終わってしまう。
「ブレードランナー」における魅力は言うまでもなくサイバーパンクな世界観だが、ロイ・バッティの名言も長きに渡り語り継がれており、それらがなく表面的なビジュアルだけを徹底してオマージュした続編が大コケしたことからも分かるように、マクガフィンと本筋はしっかり連携して考える必要があるように思う。
ブレードランナーは「サイバーパンク」がマクガフィンであり、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」という問いかけが本質である。
事実、ブレードランナーの物語も終盤にかけて、独特な世界観の重要性は薄れていく。
まとめ
素人がごちゃごちゃと長く語ってごめんね。
非実用的な書き殴りがしずインの本質でもあるし許してね。