2024年2月24日(土)旧暦1/15☀️
日本もかつては祝っていた元宵節
午前中ゴミ出しに出たら、マンションの出入口での冥金を燃やすお祈り行為は禁止されているにも関わらず、やっている人が複数見られた、やらずにはいられない、昔からの慣習を続ける人がこんなにいるもんか…と現代都市生活と昔ながらの風習とが混在する風景をちょっと複雑な気持ちも抱きつつ、眺めてきたのであった
地域によっては小豆餅とか小豆飯を食べる風習があったとか、もち米に小豆が入っていてすこし塩がきいているやつが好き、いわゆる赤飯とか紅白もちとかそういうのを食べてたのかなと想像する、赤飯に胡麻塩ふって食べた記憶がある、現代ではコンビニでも赤飯おにぎりを売ってるけどなんか違う味だったりする
節目のお祝いっていうのは、東アジアの豊かな穀倉地帯なんかじゃ昔からお餅がやっぱり書かせなかったんだろうなと元宵節におもふのであった
2冊の本を読んでたら、夜になった
夜23時ころに確定申告をした
2023年は令和5年だったんか、と令和なんて使わんし普段の生活で見ないなと思うにつけ日本と疎遠になった感しみじみ
忘れられた日本人 宮本常一 岩波書店 岩波文庫ワイド版 1995年
民俗学者の著者は、人々の営まれている生活をもっとつぶさに見るべきではないか、民俗誌ではなく”生活誌”のほうが大事に取り上げられるべきではないかという問いを抱いていたという
”無字社会のすぐれた伝承者”と解説者の網野氏は宮本常一を称している
東北日本と西南日本の文化の相違が指摘されている点は本作の大きな特徴
解説で、宮本氏の自叙伝「民俗学の旅」からの引用が印象的 ⤵︎ ︎
進歩と退歩についての示唆深い記述
本作で印象てだった章
対馬にて 一 寄りあい :古くはクジラのとれた対馬の北端に近い西海岸の伊奈という村での寄り合いの話、他の本でも引用されていたと思う、村の帳箱の中の文書をしばらく貸してほしいと依頼したら寄り合いの審議にかけられなかなか結論が出なかった話だが、村に残るこの寄り合いというシステム、話し合いの過程が大事にされるこういった場の尊さのようなものを感じられる話
子供をさがす:共同体の制度的なまた機能的な分析、それは実際どのように生きているかということを周防大島の小さな農村での出来事から切り取って、読者に鮮やかに提示してくれている、子どもの姿が見えなくなり、村の大人たちが探すという出来事だが、その村にいる人々がどのように共同体を形づくっているかがリアルに伝わってくる、オチもある話
土佐源氏:土佐の山中の梼原村(ゆすはらむら)にいた盲目の乞食に取材した自叙伝 ”ああ、目の見えぬ30年は長うもあり、みじこうもあった。かまうた女のことを思い出してのう。どの女もみなやさしいええ女じゃった。”と結ばれる
私の祖父:著者の祖父が亡くなった時の話、終盤の一部分 ”祖父が死んだあくる日、近所の老人が祖父名義の貯金通帳をもってきた。それは自分の葬式の費用にするためのものであった。子の通帳をあずかっていた老人は、そのむかしわたしの家をやいた少年であった。青年のころには少し気が変になっていたのを祖父はよく面倒を見てやった。青年はそれから四国巡礼に出て長い間かえらなかった。もどってくるとすっかり元気になっていた。そして小商売をはじめた。正直で親切で貧乏人にはよい味方であった。祖父にとっては自分の家へ不幸をもたらした人だったけれど信頼してずっと年下なのにかかわらずなにごとも相談していたようである。”