2026年03月23日 - 演繹的に生き続けろ

二葉澪降
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公開:2026/3/23

23:54入眠、11:05起床。

今日お昼からメンター面談だったけど、メンターの体調不良で後日になった。

体調不良多くて心配だなあ。


今日も何もできなかった。

何にも集中できなくて、何も成し遂げられない自分に絶望する。

逃げてばっかりで逃げ切れもしなくて、何がしたいのかも分からない。

熱的死だけを望んでいることに気付くことが最大の不幸だ。

生きているから、生活しようとするだけで、死ぬならそうは思わない。

ただ生をのらりくらり、一日を何度も潰して一ヶ月にするだけだ。

生きるとは、欲求の発生と解消なんだと思う。

本当に欲求なんてものがあるのだろうか。

欲求なんて勘違いに過ぎないのかもしれないが、あるいは今の私が一時的に欲求を失っているだけなのかもしれない。

瞬間的な唯物論ではそのときあればあるのかもしれないし、そのときなければないのかもしれない。

どうにも、この欲求というものに突き動かされて私は生きているらしい。

欲求とは衝動であって、その先に目的などない。

だから可笑しいのだ。

死にたい野郎が生きる意味を問うのはそういうところからであって、自らが生きていた根拠がただの衝動で、それを失った自分に目的があるかどうかを冷静に求めるのだ。

ああつまり、最初から欲求だけがあって、目的あるように見えていただけなのかもしれない。

急いでも回っても、終着点は死だけ。

最終的に死ぬのに、道中で何か目的を見いだせるわけがない。

目的を達成したあとに何もなければ、それは目的じゃないから。

つまり演繹的な活動こそが生きる意味なのか?

そうだとすれば、死という概念があまりにも構造を歪ませてしまっている。

本来終わりのない演繹によって目的が設定されているのなら、それが正しい生き方なのに、死がある以上、人は死に向かって目的を終了させようとする。

それが17歳からでも見えているから、人生に目的などなくて、欲求の傀儡だと思ってしまう。

ええと、つまり無限の寿命を仮定して死ぬまで生き続けることで"目的"を得られるのだろうか。

それならば今までの私には何の目的もなかったのだろう、死ぬことを強く前提にしていたから。

宗教とは、ほとんど死後の世界を前提としていて、それに向かっていく矢印を人生だと思っている。

つまり、人類にとって人生の終着点は死なんだな。

だから死にたくなるんだ。

既存宗教は死を前提に頑張って生きる術を提供してきた、私はそうしない。

無限に生きると思えばいいんだ、そうすれば死ぬ必要なんてない。

生き急ぐから、歯車の回転が落ちたように思えて狂った時計を床に打ち捨てようと思えるんだ。

無限の長さが仮定された時点で相対的なズレなど存在せず、動き続けることだけが答えだ。

私は、いつまでも生き続けなければならない。