「考えて行動しなさい」と子に説教をすることが何度かあったのだけど、最近そもそも「考える」ということがどういうことなのかを共有できていないことに気づいた。そこを教えてないのに「考えなさい」と言ってしまっていたことに反省しつつ、改めて「考える」ということについて言語化を行なった。
逆から導いてみる。「考えていない」だったり「考え無し」だったり「考えが浅い」と思われるケースはほとんどの場合、次に何が起こるか想像せずに、反射的に反応的に、他の言い方としては野生的に行動している。この行動は身体を動かすことの他に、発する言葉や、表情や態度も含まれる。
つまり「考える」ということは、きちんといろいろ想像をし、反射的・反応的にならず、理性的な言動をするということになる。
自分の望むこと、関係する他の誰かの期待、環境に与える影響、できる限りのパターンを洗い出して、さらにそれらに基づいたアクションの結果から可能性も洗い出す。それを数手先まで、囲碁や将棋やチェスやリバーシのように先読みをする。「どうなるだろう?」を想像すること。それこそが考えることだと思う。
この世のトラブルの多くは、この想像が足りないことから起こっているように思える。「あと数手深く考えていれば…」ということは大人なら何度も悔やんでいるんじゃないかと思う。
想像は経験と教養が必要で、限りある時間の中で深さを稼ぐには何度も考えて一手のスピードを上げることが必要。結論としては「考えることを続ける」ことで「考える力」がつく。
考えることができると、どうなるか。なぜその行動をとったのか、なぜその言葉を選んだのか、質問されてもきちんと答えられる。決して言い訳にはならない。建設的な対話に持っていくことができ、もしかしたら相手は協力してくれるかもしれない。言い訳が出てしまう場合はそれはまだまだ考えが浅い証拠で、相手も納得してくれないだろう。
社会では「考える」というスキルは絶対に必要になる。生きる上で最も重要なコミュニケーションにおいても「考える」ことは切っても切り離せない。
今まで考え無しに「考えなさい」と言ってしまっていたけど、すごく重要で、でもすごく基礎的なことだ。基礎だからこそ、しっかりと身につけてもらいたいし、自分自身も磨いていきたい。
考えていきたい。