震災から

yutaabe200
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これを見て不愉快に思う方や違う意見のある方がいると思いますが、それはそれでいいとは思います。

被災当時

当時子供と一緒に近隣の実家で正月を迎えてました。

石川県付近で地震があったとテレビでニュースが流れてからすぐに、スマホの地震速報が鳴り出し様子を見ましたが、流石に長い大きな揺れが続きまずそうな気配を感じました。

慌てて子供を連れて外に出たのが一瞬の出来事でしたが、実家の玄関が壊れ水が噴き出ているかと思ったら近所の家の車庫が崩れたり、近くで過呼吸になっている女性がいたりとして経験外のことが起きていることを実感しました。

同時に津波警報が出ており、あたりは液状化や水道管の破裂で視覚的に水が見えていたことが余計に不安を煽っていた状況だったと今では思います。

小さい子供がいたので避難するため自宅に車で戻り、こどもの食事とおむつやらこどもの必要なものだけを自宅から取り出し近くの中学校へ向かいました。

避難の道中も地割れで車が立ち往生していたり、あたりから水が吹き出していたりと「これが被災か」と思い知るような光景ばかりでした。

避難先の中学校ではすでに多くの人が避難してましたが、みんな海の方向を見ています。辺りの地形では砂丘があるので20m以上の津波が発生しなければ、海から津波が押し寄せることはありません。にも関わらずみんな海の方を見てました。

バカだなって。見るなら逆方角の川だろうと思ってたのだけ記憶にあります。

被災後すぐ

被災後はインフラが不安定になったり、近所が土砂崩れ警報で避難指示が出たり、積雪があったりと地震後の次の被害に備える必要もあり気を許すことができない状況でした。

近隣の様子を見ると見違える様子となっており、先行きが不安になる状況でした。

被災から少し

2,3日すると広範囲の被災情報が把握できました。

私の実家や自宅にかけての一帯が局所的に被害を受けている一方、徒歩で5分ほど歩いたところあたりは特に被害がなかったりしていることがわかりました。

今になってわかったことですが、近隣の地形や地盤に関係しており細かな地域差で被害の大小が異なっていたようです。

SNSでの観測

この辺りになると私もSNSで情報収集を始めたのですが、メディアより先に被害の発生原因を推察するような投稿が目立っていました。

今回の震災の被害が私の近隣で局所的だったことも関連しています。

「砂丘の〇〇だから」、「元々この地域は〇〇だから」みたいな素人がそれっぽい根拠を引っ張り出して専門家気取りをした投稿が上位に出てきますが、この時点ではまだノイズ情報です。

私が知りたいのはどこのスーパーやドラッグストアが開店してて、どこに迎えば安全に子供の離乳食やおむつが調達できるのか、必要な水が購入できるのか、と言う時点でした。

また同時に国内では空港での事故が発生しており、それも安否確認が曖昧なタイミングで「なぜ事故が発生したのか」「責任問題はどこにあり説明責任は誰が果たすのか」みたいな話題に言及する情報がすでに出ておりました。

これらは私が検索して観測したと言うより、私のTwitter(X)のタイムラインで自然的に出てきた情報でした。

私が最初に自分の職種・職業に携わる同業者への違和感を感じた最初の出来事でした。

「この人たちは自分の知識や知見だったりをひけらかして、専門家気取りをしてないと生きていけない病気かなんかなのか」と。

「アウトプットとなんかを勘違いしてんじゃない?」みたいな。

復旧作業

とにかく暮らせる最低限の状態を作らないといけないと言うことで、被害が大きかった給水・排水関連が先に行われていました。

確かに少し掘るとすぐにポンプで排水をしなければならないほどの水が出てきます。

砂丘の下だから地下水が多いと言うことです。

私の賃貸の自宅はともかく実家の方は特に先に作業にあたってくれるつてはないかと思ってましたが、不幸中の幸いで父の幼馴染が関連の仕事をされてて、業者の方を遠方から引き連れて作業にあたってくれていました。

私が徒歩で様子を見に行った頃には、全く違う、車関係の仕事をしている父の幼馴染の方も駆けつけてくれており、60を間近に迎えても友達とかっていうのはそう言うものかと、感じるものがありました。

またその業者の方たちも遠方から数日間連続で作業にあたってくれていましたが、商社系のサラリーマンをしている父やエンジニアとかいう職業の私はそう言う現場では役に立ちません。

後になってわかったのですが、その業者の方にお支払いした金額が行政が推奨していた業者よりも格段に安く、そもそものその作業の相場自体も私が想定した金額を下回っていたことです。

私や父よりも年収がおそらく低い人たちが、この臨時の時に1番必要とされている現実に違和感を覚えたことを記憶してます。

復旧に必要な資金と助成金

最低限の生活は確保できたとはいえ、家が傾いたり玄関が壊れたり、駐車場が地割れで使用できなかったりと修繕には1000万円をこえる金額が必要になります。

まずは罹災証明ということを知ったので調査の申し込みをしましたが、一向に調査がこない状態が続きます。

これは電話窓口のみで聞いた話で信ぴょう性はどうかと思いますが「被害を受けただろう地域をあいうえお順に調査を始めている」ということでした。

あいうえお順というのにも驚きましたが、つまり被害がありそうな地域であれば、被害がないもしくは小さい場所も含めて調査しているということです。

これが本当であれば今でも何がおかしいかと具体的に言語化するのにも呆れる状況です。

痺れを切らして行政に問い合わせたところ数日後に調査が行われました。

このような場合、文句を言ったものが報われる仕組みに見えます。

そして調査後、修繕等の助成金の受給額を把握するにはその証明書が必要ですが、それの発行通知の連絡がまた中々きません。

再度痺れを切らして窓口に突撃すると、その場で発行されました。

現在ようやく周知されるようになりましたが、調査後数日たって通知の連絡がない場合、窓口へ行くと発行してくれるようです。

やはり最初に文句を言ったものが報われる仕組みのようでした。

被災と所得

被災すると様々な助成金や減免の制度が用意されています。

国・県・市からの応急処置に関する支援や生活復興に関する支援、住民税や固定資産税の減免や社会保険料の減免などがあります。

ただこれらにはいわゆる「所得制限」が発生するものが大半です。

自立復興の資力がないことを証明するために書類が必要であったり、税金関連は特に厳密な所得に関する制約があります。

これには愕然とし、「自分で今まで社会で努力して稼いだ人は自助努力をしろ、そうじゃない人を優先する」と言われている気がします。

これらのいわゆる「所得制限」にかかる人たちは、おそらく平均よりも多くの各種税金を課せられています。にも関わらず緊急時の金銭的な救済処置は外されるのです。

働く気力や稼ぐ気力なくなりますよね。。。

仕事と所得

これが本題です。

上記までのことを踏まえて改めて仕事やお金に関して考えるきっかけとなりました。

もしかしたら家族がいたり、子どもがいたりするようになったから感じでしまうことなのではないかと思う部分は多少ありますが、今まで自分の中で一貫して考えていたものが半分正解で半分間違いであったことを痛感しました。

・仕事はあくまで生活のため。家族がいたら家族のため、子どものため

・生活にはお金が必要。つまり仕事はお金を得るための手段

・お金は生活の為。家族とか自分の大切なある一定の人とどれだけ幸せになれるかや、日々起こる問題に対処できるか

・意外と世間はお金で買える幸せやお金で解決できる問題が案外多い

・仕事の為・お金の為に目的を犠牲にするのは本末転倒

これらは一貫して私が昔から考えていたことです。

私のことを仕事人間だったり、お金への執着が強い人間だと揶揄する声も今まで多くありましたが、私はお金で買える幸せはとっとと手に入れてしまいたいですし、お金で解決できる問題はさっさと解決してしまいたい人間だからだと思います。お金で手に入らない・解決しない問題に時間を使いたいタイプです。

私の育った環境はすごく豪邸があるわけでも、資力があるわけでもないですが、そういった意味では裕福な環境で育ったのも影響はあるかもしれません。

結果的に自力で私も現在は震災前の生活にほぼ戻れてはいますし、実家も修繕の見通しが立っていますが、これはあくまでも近しい人たちの善意の協力と自助努力に他ならないです。

つまりはこういう生き方や考え方をしていると公的な立場からは救済の除外とされ、通常よりも負担を強いられるわけです。

所得とソフトウェアエンジニア

上記の思想のもと、当時自分の学力で手に届きそうでかつそれをいち早く達成できそうな仕事として私はソフトウェアエンジニアを選択したわけですが、界隈で時折話題となる「非業務での時間を学習に当てる必要がある」かどうかに着目します。

これは都度話題が上がる度にそれぞれのライフスタイル等を考慮して心広い意見が交わされているように一見思えますが、実状は異なります。高水準な所得を得るには、非業務での時間を学習に当てる必要はこの職種では少なからず必要であり、そうでなければよほどこの職種が好きでない限りこの職種を選ぶ意味をなさないのです。つまり場合によっては「割りに合わない」という状況となり、私自身それに当てはまりつつあるのをここ数年こどもと過ごす中で実感しています。

私のライフプランでは30後半やそれ以降になっても、時間を犠牲としてその職種で高所得を得続けるようなことはする必要がなくなり、ましてやそうまでしても万が一の際に救済を得られずに高額を課税され続けることが不都合となります。

それを続けられる人はごく一部で私と異なるライフプランを歩んでいく人だろうとも思いますし、万が一の際にSNS等で「自分の知識や知見だったりをひけらかして、専門家気取りをしてないと生きていけない病気なのか」と勘繰られるような性格の拗らせ方もしたくないです。

この界隈に入ってから20代の頃は「この人の水準に同じ年齢で達していたい」「この人みたいなキャリアプラン・ライフプランを歩んでいきたい」みたいな対象の人がいました。しかし結婚をしちょうどコロナ下もありそういう人と接することが少なくなり、こどもが産まれ従来のような時間の使い方の優先度が低くなった今だと、この職種をしている人たちの中にそういった今の私の現実に沿った目標を見出すことは難しいようです。

そうでない方もいるんでしょうし、実際数人それには当てはまらない人も脳裏に浮かびますが、だとしても単なる一般的な大学生をして社会人になっただけの私がこの職種の文化に飛び込んで以来、この界隈の周囲の人に感じていた違和感というか、色々な意味で普通とはちょっと違う雰囲気に対してある程度明確化され、私個人的にこの職種を離れたいという考えに結びついてしまいました。

最後

簡略すると被災してからソフトウェアエンジニアであることに意味を見いだせなくなった、という個人的なお気持ち表明に言えるのですが、ここに至るまでの過程は実際にこれを経験しないとわからないことではありました。

ある程度の高額納税をしても公的には救済が制限されること、行政への期待値を含めて納税とそのリターンのアンバランスさ、時間等を犠牲にしてまで今の職種を続けることへの広い意味での価値観等はこれらを踏まえないと感じることができなかったと思います。

上記で記載した思想自体は間違っているとは思ってはいませんが、その実現方法として私は選択を誤ってしまったということです。

よって「ソフトウェアエンジニア」としては本業や業務委託含め現業務は必要最低限収入を得るために近々は継続はしますが、その案件や組織での私の役割を終えたと判断できた時点で継続することを辞めようと思います。

これは現在お世話になっている本業の会社には十分な配慮をしてもらったこと、また開発の現場を少し携わっている業務委託先でもご厚意をいただいたことを考慮しています。誰かにだったらすぐやめろとか言われる筋合いはないですしね。

また同時に業務量、いわゆる「仕事」に割く時間も大幅に削減します。

これはソフトウェアエンジニアとして非業務時間を割くことはもちろん、その他の高所得を維持する為の行為一切を行いません。無駄だからです。

子どもが幼稚園に入園する頃には、子どもと一緒にいられず時間の18%を既に失ってしまうらしいです。

卒園時には32%、小学校卒業時には55%と。

プログラムなんか書いてる場合ではないんです。

子どもとの時間と、少しを将来的に時間を割かないでも必要最低限の収入が得ることができるようなことに使って行きます。

X(旧Twitter)も単なる日常の記録用とかに使ったりする程度なので、アカウント自体を削除・再作成とかも検討してます。

税理士にSNSは税務調査でデメリットしかないと言われたので要相談してきますw