被災地に対して不要な(ときには逆に害になるような)支援を善意で行ってしまう人々、つまり、無力でありながら何もしないことに耐えられない人々のことが、災害のたびに問題視されている。千羽鶴を送ることがその筆頭であり、阪神淡路大震災のころからもうずっと批判されてきて、近年は大量に送られたという話も聞かなくなった。でも、それらの人々が千羽鶴に込められていた祈りはどこへ行ったのだろう? 遠く離れた地域や世界中で起きている悲劇が毎日届くこの情報の時代にあって、無力であることを自覚しながら、それでもじっとしていられない利他の衝動は、どこに持っていけばよいのだろう?
祈りについて、東日本大震災の直後に投稿された思索をみかけた。曰く「緊急時に、何もしないことが最良でありうることを認め、何もできないことを受け止め、何かした気になることを戒め、何かしないと不安になることと戦うことの別名を、祈ると呼ぶ」。 つまり、祈りとは無力に耐えることだ、と。でもわたしは、祈りは利他の衝動だと思う。津波の避難を呼びかける絶叫で話題になったアナウンサーの声は、まさに祈り、利他の衝動そのものだった。同じような祈りを無力な人々もまた抱いていて、しかしそれを込められるものごとがなくなったので、ただ耐えることを強いられている。
もちろん、募金はひとつの回答だ。募金には祈りを乗せることができる。数々の災害を経て公私ともに救援体制や専門人材が充実した現代にあっては、現金をこそ最も有効に使ってもらえる支援でもある。でも、これほど多くの悲劇が聞こえてくる中で、多くの人にはそのすべてに募金をするほどの経済的余裕はないし、自分自身の経済的不安から募金を選べない人だってたくさんいる(幼い子どもたちを育てているわたしもそのひとりだ)。無力な人々にとって、できることはただ祈ることだけだ。見えてしまう不幸に対して、ただ無力な自分に耐えるのではない、されど忘れるのではない、第三の道を示すような枠組みはないのだろうか? 祈りを祈りとしてうまく届けるための場ができるといいな、と思う。
例えば、既存の寺社が、祈りを伝える役目を担えないものだろうか。祈りを抱えるすべての人々がともに祈るための時間を、宗教や宗派の壁を超えて設ける。人々は、この日この時間に祈ることで、世界中の無力な祈りのなかに自分を位置づけ、大きな祈りとして被災者の心を暖めることができる。そういうような……。
無力なわたしの祈り。どうか今回の被災者の苦しみができるかぎり少なくありますように。