「〇〇してはいけない」「〇〇すべきではない」VS「〇〇してもいい」「〇〇すべきである」というバトルが生じているとき、彼らの信念が真っ向から対立しているというよりも、観点がかみ合っていないだけ、というケースは多いように思う。
氷を見て「あそこにあるのは水か」という議論に似ている。「水ではない」と言う人は「だって固体だから相が違うじゃん」と思っていて、「水である」という人は「だってH2Oだから水分子じゃん」と思っている。本質的にはまあ水であるし、言いようによっては水じゃないとも言えるし、そのことは二人とも承知している。根本的な意見や主張の違いがあるわけではなくて、たまたま表面的に出てきた主張だけが違っている。
倫理観や是非の評価においてもこういうケースはあって、本当はしてもいいことなのだが、ある前提の上ではしてはいけないとも言えるという、その両方の性質をあわせもっているような行為も往々にしてある。というか、究極的には全部がそうだと思っている。あらゆる「してはいけないこと」は、氷が本当は水であるように、本当は「してもいいこと」とも言える。人は働かずにふらふら生きてもいいし、誰かの果樹園からリンゴをもいで食べてもいいし、目についた誰かを殺して食べてもいい。が、それだとあまりに水すぎるというか、拠って立つ足場がなさすぎて社会としては何かと困るので、重大な部分から順に凍らせて「してはいけない」の状態に固定化している。そうして色々な行為の海のところどころをあえてみんなで氷結することによって、「してはいけない」という氷の土俵のうえに腰を据えてなんとか生きているのが私たちなんだろうと思う。足元にあるのは、氷であり水である。
だからみんなが「してはいけない」と考える行為にも「してもいい」の成分が本質的に満ちているし、みんなが「してもいい」と考える行為はいつでも固めて「してはいけない」になりうるわけで、これらはその場限りの相の違いに過ぎず、また流動的だから、ある観点では「してもいい」と言ってもいいし、また「してはいけない」と言ってもいい。言ってはいけない、と言ってもいい。
要は言葉遊びでしかなく、本当は意見の対立すら生じていなくても、ちょっと論点がずれているだけで不毛なバトルは繰り広げられてしまう。これでは水掛け論にしかならない。