「違和感を感じる」という言い回しは間違っている、あるいは避けるべきだという指摘がある。「感」が重複しているから「馬に乗馬する」とか「頭痛が痛い」のようなもので、表現としてスマートでない。それを言うなら「違和感がある」「違和感を覚える」というべきである、と。まあ言いたいことはわかる。のだけど、でもそうするとニュアンスが微妙に変わっちゃうんだよなぁ、とも思う。
「○○には違和感がある」と言ったとき、何となくこれは客観的事実というか、○○の性質について言及しているような印象を受ける。○○に対して人間が引っ掛かりを覚えることは自然なことである、というような。しかしそこまで強く言うつもりはないが、あくまで私という一個人が○○について、なにかモヤモヤとしたものを感じてしまうのだ、ということを述べたいときには、やはり「違和感を感じる」と言いたい。
その点においては「違和感を覚える」でもいいのだけど、それだとなんとなく、いつもそうであるかのようなニュアンスが含まれる気がする。私は○○に触れると違和感を覚えるのである、私と○○の関係性というのは以前より、またこれからもそういうものなのである、というような。しかしそこまで確固たるものはないが、あくまで今この瞬間の私がたまたま今の状況において、違和感というものが心の内をよぎったのだ、ということを述べたいときには、やはり「違和感を感じる」と言いたい。
すっかり広まっている誤用表現というのは「違和感を感じる」以外にも色々あるけれども、おそらくそれらには、その方が発話者の内面を適切に表しているように感じられるようなニュアンスの優越があって、ゆえにうっかりだろうがなんだろうが、実用においてそちらが採用されやすいという圧力がある。となれば、これを頭ごなしに誤りだと断じるよりは、新たな用法として受容する方がみんなハッピー、言葉って自由でいいねという柔らかな世界になっていいような気がする。
おそらく現代日本語で正しいとされている表現だって、何百年かさかのぼってみたら実は誤用だったということも多分にありそうだ。たかだか現代人がフォローしきれる範囲の言葉の用例だけを見て、やれ言葉の乱れだとか学がないだとかいって統制一辺倒になるムーブを見ると、私はどうも違和感を感じてしまう。