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人間にとってゲームとは何かを考えたい

小林ゆうすけ
·
公開:2026/7/8

最近ボードゲームカフェに行ったのもきっかけのひとつとなって、「ボードゲームって面白いな」となり、ひいては「ゲームという表現媒体って面白いな」というモードに入ってきている。触発されて、Steamのアカウントを作り、セールに乗じて2本ほどPCゲームを買ってみた。コントローラーを触るのも10年ぶりくらいになるかもしれない。

で、最近はゲームについていろいろ考える。ボードゲームとかビデオゲームに限らず、スポーツとかそういったものも含む広い意味でのゲームである。ゲームって人間にとって意外とプリミティブな要素なのでは? みたいなことを、ぼんやりモヤモヤ考えていると膨らんで収集がつかなくなってしまったので、取り留めもないことをモヤモヤしたままでだらだらと書いていく。

要するに、ゲームとはルールであり制限であり、人間が世界の本質に触れるために不可欠な虚構なんじゃないか、ということである。ボードゲームでは明確にルールを最初に設定して、やっていいこととやってはいけないことを明確にしてから、そのシナリオに沿って人々が行動を強いられる。だからこそ楽しみが生まれる。ゲームは制約であり秩序であって、社会性の源泉としての性質がある。 ルールを設定することで、本来の現実世界を皆の合意のもとで一旦隠蔽して、運用しやすい世界ができる。人間の自由を制限する拘束具を設けることで、世界を実際のある姿よりも小さく見せて、偽の輪郭をあたかも存在するかのようにみなす。というのが、これまでずっと人間が営んできた文化というものの実態なんじゃないかという話である。

最も歴史あるスポーツであるサッカーも、 刻一刻と盤面が変化する中で複雑な戦術が絡み合うことで、1 回限りの白熱したドラマが生まれるわけだが、突然ルールを無視される可能性は常にある。ボールを手で掴んでゴールへ投げ込んだり、対戦相手を殴って戦闘不能に追い込んだりしてもいい。いやよくないんだけど、本来はいいはずではある。人間には手があるし、暴力がある。ただ、ルール上そうはできないという制限があるからこそ、プレイヤーはそうしない。よくないということにしましょう、と各々が合意しているというだけのことである。

こういったことは現実の社会にもそのままスケールできて、法律は本当は破ってもいいけど、破ってはいけないものと設定しておくという意味で、ゲーム性がある。 資本主義社会・貨幣経済という社会の構造自体も同じように捉えられる。 お金を人から奪ってはいけないとか、自分で偽造してはいけないといったような、なんとなく恣意的に決められた制約がある。だからこそ、そのルールの中で生きようという前提に立つ限りでは、さまざまなゲーム性が生まれ、文字どおりゲーム理論のような経済の力学が生まれる。

ただ、こうしたルールのもとに成り立つ世界はあくまで虚構であって、 世界本来の姿ではない。自分の立つゲーム自体をぶっ壊すことで、世界の輪郭が初めて見えてくるという側面がある。

例えば、ギャンブルは世界の本質を見る遊びだという指摘がある。資本主義・貨幣経済という仮のルールを破壊できるところにギャンブルのカタルシスや中毒性があり、また反社会性にも通じている。

ギャンブルをする人にとっての崇高な対象は、もはや貨幣そのものではなく、貨幣を媒介に触れられる不明性にあるのだ。貨幣的な崇高とは、社会的に構築された崇高である。対してギャンブル的な崇高とは、世界の不明さそのものである。崇高の強度としてはギャンブル的な崇高のほうが強烈に思われる。「貨幣そのもの」に近づきすぎた結果として、貨幣の価値を、再び社会的に信じることは、もはやできなくなる。貨幣はたんなる紙切れになる。 ギャンブル依存は単なる金銭的 破綻 というより、資本主義社会を生きる主体が現実界へと引きこまれる事態なのだという。

ギャンブラーは、偶然と結びつくことによって、象徴的秩序を象徴しうるもの以上の何かに開いていく。これは、シャーマンが骨を投げて霊と交信することに似ている。ギャンブルでは、それ以外では見えない何かが姿を現す。この何かこそが「現実」であり、「現実」とは無である。そして、まさに無であるからこそ、何にでもなりうるのである。 (Bjerg 2009, 57)

出典:難波優輝『物語化批判の哲学』

ここで言っている「現実」というのは、 仏教における空の思想と似ているところがあると思う。言語や認識によって切り取られる前の、未分化の混沌とした世界といったイメージ。 これと自己とを融合させれば悟りに至る。(と私は認識している)

禅の公案も、悟りを得るためのものだが、まさにこういった制約の輪郭を溶かす装置としてあるんじゃないか。言語という枠組みを取り払うことで世界が見えてくる。制約を破壊するためには、破壊するための制約がなければならない。だから、破壊しやすい言語の枠組みとして公案が生まれたのではないか。 ルールを作ることは、それを破壊することで触れることのできる世界の本質的な性質を定義することであり、 そうした人々の体験をデザインすることでもある。

大乗仏教が発展してきた過程で、もし現代のような AI によるバイブコーディングのような文化があったとしたら、どこかの高僧がビデオゲームを作っていた可能性もあるんじゃないか、と妄想している。そのゲーム(修行)によって大悟した僧が宗派を開く。 なんなら今後そういうことがあるかもしれない。

@yuu_kobaya
世界のすみっこで、もそもそ身をよじって生きています。 デザイン, 技術, 読書, 学び... いろんなことが好きな人。 わたしについて:yusukeweb.work