「PERFECT DAYS」を観たら現場仕事とスーパー銭湯に植えられている木を思い出した話

zanmme
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まず初めに「PERFECT DAYS」をこれ以上に無いロケーションで鑑賞できたことを知人友人に自慢したい

ある日突然連絡をよこして、自分の生活圏に"身ひとつで長野まで旅行感覚でやって来たわたし"を快く受け入れるばかりか

手厚いおもてなしの中にごく自然な形で「相生座」に辿り着く流れを作ってくれた乾くんに心から感謝したい

前日の晩。夕食を共にした柿次郎さんから"相生座は足元から底冷えするので入口のブランケットを持って行くように!"そう念を押されていたおかげもあり

「冬の長野」「老舗映画館」という寒さの上限が想像もつかない条件のなかで鑑賞の集中が削がれるようなこともなかった

控えめに言って生きてきた褒美であると感じるくらい「相生座」はこの映画を鑑賞するのに適した空間であったように思う。劇場と作品。最高のペアリングによって「超個人版PERFECT DAYS」として強固な思い出の一つとなったのだから

旅先でひとり映画を観ることは「豊かな時間」そのものだったので調子に乗ってマンネリ化しない程度に今後も継続してやっていきたい

この映画を観たらパンフレットが欲しくなるのだろうとの予想はついたが、鑑賞後にまんまとパンフレット相生座の手ぬぐいをセット購いしてしまうのだった

それを友人に伝えるべく写真にして送ったところ"都内ではパンフレットが売り切れていること" "自分は何個も劇場を回ってやっと手に入れたこと"などを教えてくれた

入手困難なパンフレットまで手にする事ができたラッキーも有難かったし、この映画には終始特別な「縁のようなもの」の存在を感じずには居られなかったな

肝心の本編にもそのような親しみのようなものを感じながら鑑賞したので"私はこの映画を美しいと思い、それを好きだと思った"その一言に集約したい

それ以上でもそれ以下でも無く"映画なのだからそれで良いじゃないか"そのような感想を抱ける作品という印象を受けた

「主人公のような生き方を選ぶ者には、なかなか辿り着くことがない映画をそうではない者が鑑賞することになる構造的な皮肉」

これについては何度か見聞きしていたし、やけに綺麗なトイレを見るたび多少の違和感は脳裏にチラついた

わからなくもない。ただ、もしかすると。演出に汚物の描写が出てこないのは企画やスポンサー的な話ではなく

それらが主人公にとっては"やがて消え去る汚くないもの"汚物を目にしても"気に留めないものだからなのかもしれない"そうも感じる

「拭いて、磨いて、滞りなく機能するように元に戻す」その一点を見つめ続ける彼だからこそ

とにかく極端で貧相な感想はいったん横に置いておける。この映画の映像と音楽と役所広司が素晴らしいのは間違いなかった

禅のように洗練された生活を送る主人公には独自の躾による美しさが感じられると思うが、わたしは富のある無しに関わらず実際にそれを体現することの出来る「魂がおしゃれな人物」が一定数存在し、奇跡を起こす瞬間を知っている

伊丹十三の映画「タンポポ」でホームレスが夜寝静まったレストランに忍び込み、警備員の目を盗んで目にも麗しい手付きで作る極上のオムライスなんかはまさに魂の代表格であろう

ホームレスの話が続くが、ワハハ本舗のホームレス芸人のジジ・ぶぅに楽屋で会った時のこと

"俺が食べるものもなく暇すぎて石を舐めてたら、ある日それを妬んだホームレス連中に羽交い締めにされて

「何ずっとうまそうなモン食ってんだこのヤロー!」そう言って口をこじ開けられ取り上げられた。ただの石だったのに…"その話を思い出す

目の前にある、終わりまで終わらない時間を芸の肥やしにし続けた結果。生まれた悲劇だと思ったが、彼の口から語られるとそれはお笑いになった

「魂のおしゃれさ」とは条件が極限まで削がれた状態であってもその本領を発揮し、極限状況によって輝く奇跡なのである

「タンポポ」で厚化粧をして美女と生卵を口移しラリーしていた、あの、役所広司が。令和のスクリーンでは、しょぼくれて萎んだレーズンような身体を惜しみなく披露してくれるのだから。役者人生ってのはほんとうにすごいなぁ

また、独特の余白があるというのもこの映画を観ていて癒された要因であった

夢の描写はまるでPCを放置すると流れるスクリーンセーバーのようであり、そのシーンに入ると映像ではなく自分の思考や過去に想いを巡らせた

突然だけど、思い出しついでに10年以上前の自分の現場仕事について話をしたい

当時、分譲マンションの建具や床に出来た傷の補修工のアルバイトをやっていたのだが、それがまさに便所を掃除する「見えない」仕事そのものだったのである

仕事について知る人が世の中にあまりに少ないので説明すると、デベロッパーの現場に立ち入る技術職でありながら「あった傷」を「無かったこと」にする陰の仕事である

職場には、何らかの事情により現場で力の要る作業を出来なくなった男性が多い。もしくは当時唯一と言っても過言ではない女性の職人が入ることのできる現場仕事だった

そのため工事現場では常に悪目立ちをし、噂を立てられることも多い

詰め所と呼ばれる休憩所の壁にグラビアの切り抜きが貼ってあるような男社会のヒエラルキーの中で、必要以上に下のほうの扱いを受ける仕事だ

補修工は道具のレパートリーが命。凡ゆる傷に対応できるように半田ごてやラッカーシンナーを始めとする道具類を一式持ち歩く

仕事を必要とされる中間点検や竣工間近といった殺伐とした現場では、道具を持ち運ぶだけで馬鹿だの邪魔だの言われていた

ただでさえ朝の早い現場仕事に加えて、シンナー臭の漂う巨大な道具箱を括り付けたカートを引き摺りながら上り方面へ向かうのだから。行き来の電車でも怪訝な顔をされる

その屈辱とは裏腹に。専門的な知識と繊細な技術を要するので、誰にでも出来ることではない

わたしも含めて仕事を愛し、誇りをもっているマイペースな人物が多かったのも印象的だ

食品サンプルの職人になりたくて、とりあえず手先の器用さを試されるこの仕事を始めてみたという男性は、休日は団地の給水塔を見に行き、給水塔の気持ちになって団地の人々の生活を見下ろす様子を想像するのが趣味だと言った

またある者は。休憩時、昼食を摂るための公園に綺麗な落ち葉があると必ずそれを小瓶に集める。丸の内OLが1,400円掛けて食べるパスタランチを誰よりも憎み、あれより絶対に美味しくてレパートリーをもったパスタを食べるという一心で昼食にクスクスを持ってきていた

ちなみに私はその人物にInstagramというSNS存在を教えてもらうことになる。それをきっかけにアナログのフィルムカメラと出会い傾倒していくことになるのだから。人生はほんとうに面白い

初期の投稿にはその日の現場で撮ったフィルム風の加工写真をたくさん上げていた

そのように個性豊かな職人たちが、何時間も掛けてフローリング等にできた爪の先よりも小さな(元)傷を舐めるような角度で「消えたか、否か」を確認する姿

「巾木(はばき)」という生きる上で知らなくても一切困らないパーツの中央にある窪みに等間隔に空いた針の先ほどの穴を埋めていく姿

そんな身体の向きで角度で生活したことないという体勢をとらないと作業できないクローゼットの天板の傷を修復する姿

ほんとうに格好良すぎて、溜息が出るのである

「すべてをなかったこと」にする仕事はまさに劇中の主人公そのものだった

最後に。この事を書き残しておきたくて日記を書くことにしたのだけど

映画を鑑賞しながら、スーパー銭湯で出逢うことのできる「とある風景」について思い出したのである

スーパー銭湯とは、言わば銭湯とファミリーレストランが一体となった温泉旅行アミューズメントパークのような場所なので、大体どこもテンプレートのように似たり寄ったりの作りをしている

だから嘗てわたしの居たスーパー銭湯も、あなたの居るスーパー銭湯も。ぜーんぶ一緒だと思っている。ごめんなさい

屋外の温泉とそこに置いてあるベンチ。そのロケーションで空を見上げていると、視界に木が映り込む事があるのだ

それを目にするたび、繰り返し同じことを思う

「わたしが死ぬ時に思い出すのは。親の顔でも、パートナーでも、友人でもなくて。おそらく大自然の風景でもない。きっと今、ここで幾度となく目にしてきたスーパー銭湯の空や木漏れ日のような気がする」

「このようにさりげなく美しい生活の瞬間を思い起こせるような穏やかな死に方をしたい」

する事がないので、いつもこの事について考えてしまう

図らずも湯船に浸かることなく映画を鑑賞しこの景色を見ることになるとは…

そして、これを思い浮かべるのが「銭湯シーン」を鑑賞している時ではなく「木のシーン」なのである

客観的視点の「銭湯に入るひと」を見ながらその事を思い出すのではなくて、主観的視点の「木」を見ながら思い出す

まさに映画が自分のものになる瞬間だった

この映画でいちばん好きなのは、ラストではなく冒頭にある主人公がはじめて木を見上げた時の瞳の美しさだ

あのシーンが頭と心に焼き付いてしまったのである