私の思考の基本原理

zawakin
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はじめてのしずかなインターネット使ってみる。

私の思考の基本原理を文章にしてみることにした。人に見せる目的で書いてない。将来の私がみたときに「こんなこと考えてたんだな」と振り返ってくれるくらいの解像度で表現することを目的にしている。

これらを形作った経験など、薄れる記憶に任せて、無かったことになるのも少しもったいない感じがするので、書き記しておく。

私の思考の基本原理

私の思考の基本原理は、「過去の選択した行動が自分を形作っている」と考えることだ。この基本原理からさまざまな考え方を導出することができる。

過去の選択した行動には、結果的に成功したもの、失敗したものがある。それぞれの結果は、自分というものを一つ別の存在に置き換える。それによって、今の存在が構成されていて、経験を元に常にインクリメンタルに成長していると考える。

哲学史でイギリス経験主義に感銘を受けた話

この辺りの哲学を採用するきっかけになったのは、京大の一般教養において履修した、戸田剛文さんの哲学史の授業である。この授業では、ギリシャで興った哲学から、プラグマティズムなど現代哲学の基本的な潮流など、特に西洋哲学の流れを網羅的に知ることができた。

先ほど述べた「経験が今の自分を形作る」という考え方は、この授業の中で、イギリス経験主義のジョン・ロックにシンパシーを感じたことから始まっている。人間というのは最初は誰しもが真っ白なキャンバスであり、そこに「経験」を重ねていくことでその人が形作られていくという考え方だ。

ロックが生きていた当時のイギリスは世が乱れまくっていた。このロックの考え方は、何か例えば犯罪など起こすような人たちは、その行動をもたらすような要因が過去にあったと考える。その人自身が、元々そういうことをする人だった、と簡単に切り捨てるのではなく、その人のキャンバスが上書きされるなんらかの要因がその人の過去にあって犯罪に繋がった、と考える。当時のイギリスのように、世が荒れている状況でこの発想に至るのはなかなか難しいはずだ。なぜなら、何か犯罪や、一般には悪とされる行動をする人が現れた時に、その人を責めがちだからだ。その人を形作った過去の事象にこそ問題があり、そこを正せば犯罪などは起きなかった、と考え方を変えるのはなかなか難しいことだろう。

イギリス経験主義は、現代の行動にのみ罪を被せてその事件を終わらすのではなく、その人自身ではなく、その人が経験した過去に要因があると考えて、建設的に改善していけるような哲学である。ロックの考え方では、経験はあくまで入力されるデータであり、それを処理するような人類共通のOSが存在する。問題ある環境においても、そのOSはみんな一緒だから、経験に問題がある、つまりそれをもたらす環境要因を根本的に正していこうね、という風向きになる。

当時、この考え方にシンパシーを感じた。授業を受けたあと、ロックの著書を総合人間学部の図書館で借りて北白川のマクドナルド(けいおん!の聖地でもある)で読んだ記憶がある。私は主観的には、天才型ではなく意識的な努力の量でなんとかするタイプだったので、「努力や行動が自分を形作る」という考え方を持っていた。ロックが適用していた当時の世相と比べるとローカルな適用対象ではあるが、アナロジーは十分に効くし、腹落ちできた。

経験主義の考え方が生まれた当時のイギリスは、もっと社会が乱れている時で、いわば負からゼロに戻すような、環境や犯罪などに対する考え方を改めましょう的な背景が大きかったと思う。社会に対しても私自身に対しても、「経験は今を形作る」と考えるようになった。

この哲学を採用してみて

基本的には、よかったと思っている。努力や行動は、どんな形であっても自分の中に残ると考えるようになったことで、どんな失敗であっても前向きに切り替えられるようになった。そのおかげで、思い切って興味の赴くままに面白いと思うことをやってみるというのを進められたことで、良い出会いも生まれたし、それなりに能力や立場も手に入れられてきていると思う。

他の人の原体験が気になるようになった

この考え方をしていると、私以外の人がどのような経験をしたことで今のその人になっているかが気になっていく。私と同じ考え方や、異なる考え方の人はさまざまいるので、その人たちの今が形作られるきっかけとなった原体験を理解すると、解像度が一気に上がる感覚がある。

その人に合わせた個別の教育が苦手

一方で、全ての経験からその人が形作られると考えることに弊害があると感じることも出てきた。端的にいうと、その人に合わせた教育が苦手な感じがする。私が経験した過去の事象は複雑に絡み合っており、その言語化はやろうと思っているが、それを他人にやってもらうわけにはいかない。つまり、再現手順は私自身の中には存在しているが、現実的に実行可能な形で最小経路を提示するのが難しい。例えば、私の特定の能力は、いくつかの特定の経験からなると分析していて、この能力を学習するために必要な手順を伝える時、あれもやって、これもやって、となってしまう。

(書いてて思ったが、その人の原体験やら、経験を紐解いて、そこに合わせるのが私に合ったやり方っぽいな。)

結局、どういうふうに行動するの

経験主義的な世界観を持っている話を書いてきた。

この世界観が助けになるのは、あくまで過去や現在の経験から形作られる今の存在が「なぜそうなっているか」を解釈する時だ。

しかし、未来に向けてだったり、そもそも現在もどのように行動していけば良いかについてはその世界観だけでは足りない。

それに必要なのが、経験値を更新するための”ガソリン”である。経験主義で語られるような過去の経験をアップデートしていくために必要なのは、いわばガソリンのような存在だ。これらのガソリンによって行動すると、基本的に、過去の経験からは想像できないような、予想外の方向に進むことが多い。

良いことであっても、悪いことであっても、やってみないとわからないことは多い。あらゆることを経験するのはできないが、実現可能かつ予測不可能なものごとを意識的に増やすことが大事だ。

分析してみると、経験主義的な考え方と相性の良い、重要な二つのガソリンがあるように思う。

  • 好奇心

  • 外部からの擾乱(擾乱:かき乱すこと)

ガソリン1:好奇心

好奇心は、経験値を上げるための重要なガソリンの一つである。好奇心を満たすために行動して学べたものを、経験主義的に過去の経験と混ぜ合わせることでより良い考えに更新していけるので、好奇心と経験主義は相性が良い。

理学部に入ったのも、エンジニアになったのも、全部好奇心に突き動かされた結果だった。おそらく、私が知らないものを知るようになるのが好きだという、元来の性質がある。

ChatGPT がかなり好きなのも、この辺りと近いところにある。もちろん、会話を通じて、知識を得ることが楽しいのだが、むしろ「動きが読めない」ことが一番好きな要素かもしれない。常に、「次はどんな出力が出るんだろう」とワクワクしている。後述する「外部からの擾乱」ガソリンともつながるが、手頃に予想外の結果を得られるから好きなんだろう。

しかし、さきほど、

興味の赴くままに面白いと思うことをやってみるというのを進められた

と書いたが、この「興味」が最近薄れているきていると感じる。というか好奇心はあっても、それを満たすだけの余裕や時間がないので、抑え気味にしているというのが正しい。昔、旧Twitterでのプロフィールに「好奇心駆動エンジニア」などと書いてたことがあるくらい、好奇心というガソリンを元に動くタイプの人間だった。

今は、大学の頃や精神的・時間的に余裕がある時と比べ、好奇心だけで動ける状況ではないため、このガソリンだけで経験値の更新をやりくりするのは正直厳しい。

ガソリン2:外部からの擾乱

また、自分の制御範囲を超えた意図しない外部からの擾乱も、過去の経験を更新するには必要なことである。

普通、予想外の出来事は避けるべきものという考えが一般的だと思う。ストレスも溜まるし、お金も人間関係も飛んでいくかもしれない。

組織や社会で生きる中で、個人が制御できる範囲を超えた事象がたくさん起こる。制御できないストレスはあるものの、予想外の経験ができて、結果として経験値の更新に大きく寄与していることは多い。

今の環境は、外部からの擾乱が多いので、経験値の更新がかなり進んでる。しかし、その経験値向上とストレスのバランスがうまく釣り合わないときがあるので、私自身が制御できる範囲をもう少し広げるのも大事だと思っている。そのため、意識的に戦略論を勉強したりしている。

まとめ

長くなってきたので、一旦これくらいにする。

イギリス経験主義的な考え方をベースとして、実生活に活かすための考え方について書いた。

また、好奇心と外部からの擾乱という、二つの経験値を更新するための行動を起こす”ガソリン”について説明した。この二つのガゾリンの供給量を常々監視しておくことで行うべき行動がわかってくる。

例えば、プライベートで何か変化をつけたい時は、意識的に「外部からの擾乱を増やす」行動を行うとかである。これは対外的な発表だったり、婚活でもなんでも良い。

ということで以上。

こんな感じで使うのが正しいのかな、「しずかなインターネット」。