「龍の道」 ふどらい3

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企画参加用 https://twitter.com/fudokift/status/1728534056667910459

使用お題:渡る/当たらない/模様/使いつくす/誓いの指

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 夜明けがゆっくりと東の空を染めていた。

 暗かった景色がみるみる輪郭を現しはじめる。

 私たちが潜んでいた岩陰の向こうに、古びた橋脚と、そこに張られた太いワイヤーが一本の線になって、崖の向こう岸に続いているのが見えた。

「見えたな。行くぞ」

 私の隣で寒さに震えていたソナンが、弩《いしゆみ》を持って立ち上がった。

 私はそれを座ったまま見上げた。

「本気なの?」

「本気なのってなんだよ。お前が行くんだろ。俺はその護衛だ」

 ソナンは呆れた顔で私を見下ろしてきた。

 短く整えた黒髪に、細かい刺繍の入った赤い鉢巻をしている。

 猟をする者の出立ちだ。

 ソナンの家は代々の狩人で、子供の頃から弓を仕込まれている。

 背はそんなに高くはないけど、ソナンはいかにも敏捷そうな体つきをしていた。

 ちょっと前までは、私より背も小さくて、走ったらすぐ転ぶような子だったのに、十五になる頃には、背丈も足の速さもソナンに追い抜かれていた。

「死ぬんじゃないかと思うのよ。ずっと考えていたんだけど」

 私は崖の向こうに続くワイヤーが朝日に輝き始めるのを見て、恨めしく言った。

「あの紐みたいなのに、鉤《かぎ》を引っ掛けてサーッと滑って渡るってことでしょう?」

 崖の向こう側には滑ってきた人を受け止める網のようなものが張られていたが、破れているように見えた。

 とても遠いので、そんなふうに見えるだけか。

 ワイヤーも錆《さび》が浮いていて、途中で切れそうにしか見えない。

 私たちはそれに自分たちふたりの体重を預けて、向こう岸に渡ろうとしている。

 私たちの部族はこの山の中腹にある崖に住んでいて、ずうっと昔から代々、深い崖の向こう岸の平地に渡るために、この一本橋を使ってきた。橋といっても歩いて渡れるところは無く、一本の丈夫なワイヤーが対岸とこっちを繋いでいて、体に結んだ鉤《かぎ》を引っ掛けて滑って渡るのだ。

 昔からずっとそうだった、と大人たちは言っている。それで大丈夫だったと。

 行く時は、こちら側の橋桁にくくりつけた縄の端を持っていかねばならない。

 戻るときには自力でその縄をたぐりよせて、力技で引き返すしかないからだ。

 ワイヤーはこの村から出るために、下りの傾斜がつけてある。戻る時には上り坂ということだ。

 かつては、そうやって往来していたと、村の老人たちは語っている。

 そう。

 今は、やっていないってこと。

 なぜなら、この世界に起きた何事かのせいで、崖下にはでっかい蛇が棲んでいて、それはおそらく魔物で、人を食うらしいからなのだ。

 サーッと向こう岸に渡る途中で、パクッと食われるということ。

 でも、途中でそいつが現れたら、矢で射ればいいんだと、私の幼馴染のソナンは言っている。 

 それしかないんだと、私も思った。昨夜までは。

「もし蛇が現れても、必ず俺がやっつけてやる。うちの先祖代々に伝わる、この弩《いしゆみ》で」

 冬にやってくる大きな渡鳥が翼を広げたような形を、ソナンの弓はしていた。

 狩人の衣装の上に、弩に番《つが》える矢がずらりと並べて挿してある箙《えびら》も背負っている。

 ソナンの家の居間にいつも飾ってあったもので、ソナンの家の宝だ。

 かつてこの地を魔物が襲った時も、この矢で撃退したという伝説の品なのだけど、それにしては新しい。

 きっとソナンの家族が代々、大切に手入れしてきたせいだと思うしかない。

 そうなんだ、きっとそうだと、私は自分に言い聞かせようとした。

 伝説は本当で、私は行かなくてはいけないんだ。

 なぜなら、私のお母さんは謳い巫女で、私はその娘だったから。

 だけどお母さんは私がまだ小さい頃に死んでしまって、村の人たちは心配していた。村から巫女がいなくなり、稔りを呼ぶ歌や、魔を祓う歌を歌う者がいないせいで、皆が不幸になるのではないかと。

 その歌を次の巫女に伝えることができる人も、村にはもういない。

 だけど、この世のどこにもいないわけじゃなく、都に行けば大きな社《やしろ》があって、そこに偉い巫女様は大勢いるんだと、皆は言っている。

 お母さんも、そう言っていた気がする。そこで修行したって。

 私もそこへ行くべきじゃないかと、ずっと思っていた。昨日の夜までは。

「ソナン。無理だと思う。あの崖は怖いし、蛇はもっと怖い。私には無理と思う」

 私は正直に白状した。ソナンはそれを聞いて、面白そうに笑った。小さく声を上げて。

「お前は臆病だよな。気が強いくせに」

「うるさいわね」

 俯いたまま、私は言い返した。

「まあ何とかなるって。とりあえず行ってみようぜ。無理だったら引き返せばいい。縄を引っ張れば戻れるんだろ?」

「そのはず……」

「ちょっとだけ行ってみよう。なあ? 俺もずっと向こう岸に行ってみたいって思ってたんだ」

 にっこりとしてソナンは、成人の刺青のある目尻を下げた。

 狩人として一人前と認められると成人となり、その蔓のような紋様の刺青をしてもらえるのだ。

 村の人たちは皆、そうやって、自分の仕事に合わせた印を入れている。

 ソナンの家の人たちのような狩人は、目がよく見えるように、眼力の呪いとしてその模様を入れているのだ。

 私にはまだ、何もないけど。

 だって、巫女ではないのに、巫女の刺青をしてもらうことはできない。

「そうね。わかった。行くわ……」

 今すぐ帰りますという言葉を飲み込んで、私はソナンに答えた。

 それにソナンはまたにっこりしただけで、何も言わなかった。

 話して私の気が変わったらまずいと思っているのだろう。

 長い付き合いだから、そんなことは見え見えだ。

 ソナンは親が決めた私の許嫁《いいなずけ》なのだ。

 いずれは夫婦になるのかもしれないけど、今はまだ。

 ずっと友達のままだといいなという気が、本当はしている。

「冒険だな」

 橋脚に幾つもくくりつけられていた古びた鉤《かぎ》を、帯にある鉄の輪っかに引っ掛けて、もう片側をワイヤーにかけるため、ソナンは腕をのばした。

 私の身長だと、その鉤を引っ掛けるのに踏み台がいるかもしれなかったが、ソナンはちょっと伸び上がるだけで、手が届いた。

「一個でいいか。お前もこの鉤《かぎ》に引っかかって行けよ」

 自分の帯にある輪っかにかけてあるのを指差して、ソナンはそれに私の帯の輪も通せと指で示した。

 大丈夫なの、それ?

 二人乗って平気なものなの?

 私は青ざめて見たが、一人で行けと言われるのも、お腹が痛い気分だった。

 ソナンが一緒のほうが心強い感は否めない。たとえ体重が二倍でも。昔はこの鉤《かぎ》に家畜を吊るして滑らせたりもしていたと聞くし、私たち二人合わせても、角牛《ツノウシ》一頭よりは軽いはず。

 村で鳴いている、のんびしした黒い牛たちの重さを想像して、私はそれと自分たちを頭の中で天秤《てんびん》にかけた。

 大丈夫なはず。大丈夫……。

 考えたって分かるわけない。橋が切れて落ちるかどうか、魔物の蛇が私たちを食いに現れるかどうかなんて。

 答えない私を急かすこともなく、それでもソナンは気にせず、私の帯の輪っかを引き寄せて、勝手に鉤を通した。

 あんた何やってんのよ、勝手にやらないでよ!

 頭の中では思いつくその言葉も、声にはならない。

 だって怖いんだもん!

 崖の下までは、滝でも途中で霧散するほどの距離で、えぇと、人が落ちたらどうなるのか。

 けど、そんな高いところまで蛇が登ってこられるわけがない。

 きっと迷信よ。嘘よ。誰かのでっち上げよ。

 信じない……。

 そう考えながら、私はたぶん真っ青な顔で、ソナンに引きずられるようにして、よたよたと崖端まで歩いていっていた。

「飛ぶぞー」

 水溜りでも飛び越す程度の声で、ソナンが私に言った。

「いやちょっと待」

 やっと出た私の声は、いい終わりの音を崖の上に残して、私の体はひょいっと空中に踊っていた。

 ソナンが私を崖の向こうに放り出し、自分も跳んだからだ。

 あんたね、そういうことはもうちょっと、満を辞してやるもんじゃない?

 ひょいっ、じゃないでしょ。ひょいっ、ではないと思う。

 私は頭の中でだけ、そう非難しながら、ソナンに抱えられて空中を滑り出していた。

 耳をつんざくような、金属が擦れ合う音が響いた。

 

★★★★★

「ああああダメダメ怖い怖い怖い!!」

 私は正直に叫んだが、それで下り坂を滑る鉤《かぎ》が止まるわけはない。

 見る見る故郷の村がある、絶壁の中腹の岩棚が遠ざかっていく。

「ダメダメ!」

 私は青ざめてソナンにダメ出しをした。

 そう言われてもという顔をソナンはしていた。

「リンリン、もう戻れない」

 呆れたような顔で、ソナンは済まなそうに言った。

 言われなくてもそれは分かった。

 やってみるまで気づかないのも馬鹿だったけど、鉤《かぎ》はものすごい速さで私たちを崖向こうに連れ去っていたし、その速さに逆らって上り坂を戻るためのロープを力任せに引いたところで、ぜいぜい、滑るのがゆっくりになる程度。

 これは一旦向こう側に着かないと、戻ることはできないんだろうと思えた。

 分かるのが遅い!

 私はいつもそうだ。いろいろ考えるくせに、肝心のことは分からないんだ。

 だから謳い巫女にもなれないんだ。

 お母さんが残してくれた楽譜を見ても、いまいちどんな歌か分からないし、私が謳いかけても麦も芋も、特に歌わなくてもこれぐらいは育ったんじゃないかなっていう程度しか育たない。

 それでいいんだって村の人たちは言うけど。

 いい訳、ない。

 私は半泣きで自分を責めながら、空中を滑っていた。

 蛇は出なかった。出るわけがない。

 あの話はきっと、作り話だからなのだ。

「来る……」

 ソナンが急に弩を構えた。

 装填すれば、片腕でも撃てるように工夫された、変わった弓なのだ。

 ソナンの家にしかない。

 でも、そういうのやめてくれる?

 何も来てないと思うの。何も来てない。

 私は息も絶え絶えで、じっと崖下を見るソナンの鋭い目つきの横顔を見た。

 こんなに近くでソナンを見るのはいつぶりかしら。

 女の子も裳《も》をつける年になったら、男の子とは遊ばないものよって、皆が言うから避けてきたけど、ソナンは小さいころに池で一緒にカエルに石を投げてた頃と、大して変わっていなかった。

「捕まれ、リンリン」

 もう捕まってる。鉤《かぎ》から私たちを吊るしている鎖に、私はがっちり捕まっていた。死んでも離さないつもり。

 そういう私の視線に頷くと、ソナンは箙《えびら》から片手で短い矢を取って、一本、弩《いしゆみ》に番《つがえ》えた。

 何が来るのか言ってよ。

 下を見ているソナンの視線をたどり、私は遠くの崖下にたまっている靄《もや》が、ふわっと膨らむのを見た。

 そこから何かがまっすぐに、靄《もや》を割って現れる。

 嘘でしょ。いやいや、まさか。

 やめてよ!

 確かに蛇としか言いようがない!

「蛇だ!」

 驚いた声で、ソナンもそう言った。

 私は泣くしかなかった。

 銀色に輝く鱗を持った、すごく巨大で長い胴体の何かに、翅《はね》が生えてる。何枚も。

 それがにょろにょろと空中を這うように、こっちに向かって来てる。

 夢?

 それか、単なる通りすがりの蛇?

 初めて見たけど、好きな食べ物は何?

 干し肉とドングリのお餅なら持ってきたから、全部あげてもいい。

 私たちを食べないで!

 私は心の底からそう願った。心の中で。

 だけど声にはならなかった。

 燃える溶鉱炉の鉄みたいな赤い目で、蛇が私たちを見た時も、鋭い牙のある洞窟みたいな口を開いて、湿った喉を見せてきた時も、私はただ、願っていた。心の中で。

 お願い、ゆるして……。

 ソナンが弩を構え、引き金を引いた。

 矢は飛び、蛇の眉間にある星のような紋様を射抜いた。ように見えた。

 しかし蛇が首を振って、それを避けた。

 黒いシミのように鱗の合間にある、その文様に、見覚えがあった。

 ソナンの家の居間に飾ってある。私の家の炉辺の絨毯にも。

 願いことがあるとき、私たち村人は、その印を拳で叩き、小声で祈る。

 それはただの風習だ。

 私も小さいときに祈った。

 お母さんの病気が早く治りますように。

 けど、そんなのはただの迷信だったんだ。

 ソナンはひたすら、蛇の黒い星を狙って打ち続けていた。

 当たらない。蛇は空中で巧みに避ける。

 箙《えびら》の矢が減っていくのを、私はただ見ていた。

 それを使い尽くしたら、私たちはどうなるんだろう。

 どうなるのかを、私は考えなかった。考えても、どうしようもないから。

 私にできることが何もないのが、どうしようもない。

 ソナンに向こう岸に行きたいなんて、言うんじゃなかった。

 子供のころからソナンはいっつも、私が頼めば何でもやってくれるのが、一番、いけないところだった。

 私はそれを知っていたと思う。知っていたから、ソナンに頼んだんだ。

 都のお社に行って、お母さんみたいな謳い巫女になりたいの。私、そこへ行きたいの。

 私はあの橋を、一人で渡れると思う?

 そしたらソナンは首を傾げて、無理だねって言った。

 けど二人なら、渡れると思う。指切りしようぜ。向こう岸に連れて行ってやる。

 ソナンはそう言って、私と小指を絡め、約束した。

 村の人たちが決して破らない誓いを立てるときにする、約束の指切りだ。

 婚礼でもやる。

 私たちの婚礼はもう無理になったけど、私は今それを、初めて少し、残念に思ってる。

「簪《かんざし》!」

 ソナンが振り返って、私に怒鳴った。

「簪《かんざし》くれ! もう矢がない!」

 私が髪に挿してる珊瑚玉の簪《かんざし》を、ソナンが引っこ抜いた。 

 長い髪が空中に広がる。

 何やってんのよ! それを引き抜くのは婚礼の夜でしょうが!

「お母さんの形見なのに!」

 私は怒鳴った。

「うるせえ、持ってても、もうすぐお前の形見になるだけだ!」

 ソナンが怒鳴り返し、容赦なく簪《かんざし》を弩《いしゆみ》に番《つが》えた。

 そんなもの飛ぶと思う⁉︎

 けど、私たちはもう万策尽きたのだ。

 抵抗せず死ぬか、一矢報いて死ぬかだ。

 お母さん。思ったより早く逝く。ごめんなさい。

 そう思った瞬間、私は思い出した。

 お母さんが死の床《とこ》で、私に教えた歌を。

 悪い蛇が来たら、みんなに歌ってあげてね。その時だけよ。

 とても強い歌だからね……。

 お母さんは確か、そう言っていた。

「待って!」

 まだそれを射ないで。

 私はそう頼んだのに、ソナンは一瞬も待たないで、引き金を引いてしまった。

 バカなんだから!

 内心で悪態をつきながら、仕方なく私は歌った。

 どうせ死ぬなら歌って死んだっていい。

 何にもしないよりは。

 そう思うと思いがけず強い声が、私の喉から溢れ出て来た。

 言葉ではない音が、喉から湧いてくる泉のように。

 ソナンが射た簪《かんざし》は、蛇に当たった。蛇が避けなかったからだ。

 蛇は私の歌を聴いているようだった。忘我の目をして。

 朦朧と翅《はね》を休め、蛇は落ちていった。滝も霧散するほどの、はるか下へ。

 そして霧の中に消えた。

 いつまで歌っていたのか、気づくと私は、崖の向こう側へと着いていた。