「推しとファンの関係性」光と影に真摯に向き合った傑作、キミプリ映画にかつての推しとBUMPを見た

🚲
·
公開:2025/10/15

イェーイ!✨ いっくよー?

キミと~~~、

「しずかなインターネット」!

開演だよっ!♡✨

キミプリ映画の話がしたいのでします。もう公開からだいぶ経つのに今後の入場特典が続々と発表されており、10月末あたりまではやってそうなので既に3回見たけどもう1回くらい行くかもしれない。それくらいすごく良かった。タイトルからしてわかると思うけどまともな感想文ではないので(自分語りと別ジャンルの話をガッツリします。)注意してください。あとネタバレもあるので見に行く予定の人は見ないでください。

(๑╹ω╹๑ )♡

いやこれ言ったらもうネタバレになると思うんだけど、個人的には、「推し」に対して仄暗い思い出がある人、「推し活」などといったものに対して懐疑的な人、様々な事情で「推しを推せなくなった」人、そういう人にぜひ見てもらいたいと思ってる。自分がそうだったので。いや自分が良かったから他人も良いと思うかは分かんないけど、自分は見てすごく良かった。タイトルにもある通り、この作品は推しとファンの関係性について決して明るいだけではない部分に真摯に向き合ったものとなっている。もしこの映画が「推しって最高! 推しって尊い! 推し活こそが生きがいであり最上級の行いだよね♡」ってだけのよくあるオタク賛美物語だったら自分は鼻で笑って「まあ子供向けだしな」で終わってたと思う。毎週のように映画館に通うこともなかったし、こうして感想を書くこともなかった。自分は推しとか推し活とかいうものに対して基本的に否定的な立場だったからだ。だけどそれさえこの作品によって覆されそうになっている。理由はやはり、「推し」「推し活」について光だけでない影・闇の部分が丁寧に描かれ、そんなネガティブな面すら「キラッキランラン!」に変えてしまう力があったからだと思う。最初の評判で「推し活がテーマ」と見た時は正直「またか」としか思っていなかったけど、敬遠しなくて本当によかったと思う。自分と同じ感想を抱く人がいるかは分からないけど、参考までに。もし気になった人がいたらここで読むのやめてぜひ見てみてください。

(๑╹ω╹๑ )♡

「推し活の影・闇」というと色々思い浮かぶものは多いけど(高額ランダム商法など愛を人質にした悪質な商売、グッズやかけた金額のマウント、SNSによる人間関係トラブル等……)、キミプリ映画において扱われたそれはずばり「推しとの別れ」である。ここからはシナリオの話になるけど(こういうあらすじ紹介下手だけど許して)、今作は島の女神であり最終的にラスボス的存在になる「アマス」と、アマスが推している「伝説のアイドル」2人の物語を中心に話が進んでいく。本来は小出しに情報が分かっていくのだけど、すごくざっくり話をまとめてしまうと、珊瑚の妖精であるアマス達と人間であるアイドルには大きな寿命差があり、アマスよりもずっと速く年をとってしまうアイドルは、老いる姿を見せたくなくて姿を消してしまったのだった。「ずっと一緒にいようって、私のために歌ってくれると約束したのに」。当然、推していたアイドルが突然行方不明になってしまったアマスはひどく落ち込み、引きこもってしまう。そこに呼ばれたのがプリキュア達で、闇堕ちしたアマスを歌の力で浄化して世界を救うというのがざっくりした流れである。本当はタイムスリップとかもう少し複雑な話なんだけど、とにかく自分が一番言いたいのは、シナリオの中で「"推し"との別れ(しかも死別)」が明確に描かれたことだ。まさかそんな話だとは思っていなかった。示唆する程度や「もしいなくなっても…」といった例え話でもなく、シナリオ上でハッキリと死人を扱ったことに衝撃を受けた。ただの子供向けアニメと侮ってはいけないという話はプリキュアのことにあまり詳しくなくても噂で聞くくらいに有名だと思うけど、いざ目の当たりにするとショックが大きかった。今年の映画がかなり久しぶりのプリキュア映画だったので(フレッシュプリキュア以来)、もしかするとプリキュア通の人からすれば「歴代でもっとすごいのがある」とかあるかもしれないけど。自分は今回すごくびっくりしたし、これは推し、推し活というものに本気で向き合った物語なんだなと強く感じた。

自分の、いわゆる"推し"はキャラクターばかりなので死別することはないんだけど、「推し(的な存在)との別れ」は経験したことがある。といっても何かに奪われたわけじゃなく、自分から離れた。グッズを集めたりだとか、なんか色んなことに疲れたのだ。自分はこんなにも"推し"のことが好きなのに、SNSではもっとその"推し"について詳しかったりグッズをいっぱい持ってる人がいて、なんなんだろうみたいな。ちょっと同担拒否ぎみだったのかもしれない。その時の新作もいまいちで乗り切れなかった。でも今思うと、「そのコンテンツやキャラが好きな自分が好きなだけ」だったんだよな、と思う。当時は学生というか児童だったので同級生相手に自分がどれだけそのキャラのことが好きなのかを誇示し、少し大人になってネットを手に入れればグッズを買い漁って「自分がそのキャラやコンテンツをいかに愛している」かをアピールした。創作もした。絵もいっぱい描いた。でもある時からものすごく空虚な気持ちを感じるようになり、集めたグッズにも価値を感じられなくなり、とうとうある日全てをクローゼットにしまいこんでしまった。今で言う「推し活疲れ」か、単純に飽きただけなのか、鬱か。「それを好きな自分が好きなだけ」で、本当の愛じゃないから長続きしなかったのか。分からないけど、とにかく虚しくて、世界を遠くに感じて、自分とはなんて価値のない存在なのだろうかと思った。病んでたのでBUMPばっか聴いてた。何よりも大好きだったはずの物が無くなるというのは本当に恐ろしいことで、自分は何もない、正真正銘の空っぽ人間になってしまった。好きなキャラも好きなコンテンツもそれだけが自分の全てを言い表すもので、将来の夢さえそれらの影響を受けて決めたのだから、その好きだった物を自分から取り除いたら、他には何も残らなかった。確かその頃に世間で「推し」とか「推し活」が流行り始めたんだけど、あの虚しさを経験してからは「何かにのめり込む」のが非常に怖くなり、推し活なんて二度としたくないと思った。だから、好きになるものが無いわけじゃないけど、今でも決して入れ込みすぎず、心を預けすぎないよういつも細心の注意を払っている。何かを「推し」と呼んだら、また空虚になった時にきっと耐えられないだろうから、推しなんて言葉を使うことはなかった。推し活に夢中になっている人のことが本当はすごく羨ましかったけど、自分にはとても出来ないから、正直なところちょっと見下すような態度さえ取っていた。他者からしか得られないコンテンツのことに心を揺さぶられるなんておかしい。何もいらない。大切な趣味なんてない。そういい聞かせて、「失いたくない大切な何か」を作り出すことがないように、いつもちょっと冷めた心で生きてきた。

だから、キミプリ映画での中盤のテラやアマスのセリフにとても共感したのだ。「他人の歌や踊りに一喜一憂するなんて」「自分の気持ちを他人任せにするなんて、私には考えられない」「他者はいらない。私さえいればいい。それなら孤独なんて感じない」(うろ覚え)そんな言葉が出てくることに、驚きと感動を覚えた。もちろん、これらはプリキュア達が「そんなことないよ!」と反論するために存在しているセリフなんだけど、大切だったものを失い、何かを好きになること、推しや推し活といったものが嫌いになった自分の心をずばり的確に言い表された気分だった。こんな人間のことでさえ、掬い取ってくれるのかと。世間では「推し」「推し活」ブームの中で、当たり前のように「何かを好きになること」は100%良いこととされ、それが正義だと言われ、自分のような大切な趣味も大好きなこともない、「推しを推せない」人間は、肩身が狭いというか、まあ自分が勝手にそう感じてただけなんだけど、よくない存在とされているな、と思っていた。だから、プリキュアという明るくて可愛くてキラキラしているアニメでそんな気持ちを持つキャラクターが出てきたことがすごく嬉しかった。ちなみに映画の衝撃もすごかったけど、映画と同じ理由でアニメ本編の第7〜8話もすごく感動した。

そうなんだよ。「好きになる」「のめり込む」って良いことばかりじゃない。手放しに肯定できるもんじゃない。自分はそのせいですごくツラかったんだ!

この映画を見て、たぶん多くの人は「大切な存在(推しとか、家族、友達など)」を思い浮かべると思うんだけど、自分が真っ先に思い浮かべたのは、今まで一度も「推し」と呼ぶことはなかった、「好きだったあのキャラ」のことだった。もうお別れしてしまったけど、二度とあの頃には戻れないけど、確かに楽しかった時間があったこと。例え失ってしまっても、心の中では生きているということ。こう書き出してみるとすごくありきたりというか、綺麗事じゃんって思うんだけど、だけどそんな当たり前のことさえ信じきれてなかった自分がいて、それを歌と映像の力で分からせてもらった気がする。何かに奪われたわけでもない、自分から離れてしまっただけのお別れに対して、しかも実在しないキャラクターに対してこんなことを思うのはおかしいのかもしれないけど。でも、「一緒に過ごした時間はずっと消えない」「大好きだった人やものは、例え無くなってしまっても、心の中で生きている」というこの映画のメッセージをかつての"推し"と重ね合わせた時、なんだかすごく自然に腑に落ちて、なんの突っかかりもなく自然と心が受け入れたような感じがして、初めて、あの「お別れ」を乗り越えられたような気がした。プリキュアに浄化されたアマスの「思い出した。世界はこんなにも美しい」という台詞が自分はすごく好きだ。(うろ覚えだけど…)記憶の中で大好きな人に会えたら、楽しかった時のことはいつでも思い出せる。自分は、もう同じ思いをしないように、空虚な気持ちになるようなお別れをしないようにと、本当はすごく楽しかった時のことまで封じ込めていた気がする。まだ子供で、幼くて、黒歴史って感じで、もしかしたら本当の愛じゃなかったのかもしれないけど、楽しかったのは嘘じゃない。あの頃は、今より辛いこともあったけど、"推し"がいてくれたから毎日が明るくてきらきら輝いていた。嫌なことも乗り越えられた。そんな自分がかつて居たということを、受け入れていこう。そう思った。

ちょっと傲慢かもしれないけど、一心に誰かを思ってあげられる、歌や踊りを、希望を届けてくれるアイドルプリキュア達のことが、かつての"推し"の姿と重なった気がした。自分の"推し"も、心の中で、自分の中で、こうして自分が再び前を向く日を待ち続けてくれたのかもしれない。もしそうだったらいいな。

ところで、そんな「楽しかった記憶の中にいる人には心の中でまた会える」というメッセージを発信するキミプリ映画だが、こういった言葉にどこか身に覚えはないだろうか。自分としても、すんなりこの物語を受け止め、飲み込むことができ、同時にこの物語自体にすごく心惹かれるものがあったのだけど、2回目を見てしばらくしてから気づいた。これ、BUMP OF CHICKENの歌詞じゃないか。

もちろん、人によって「BUMPらしい考え方、BUMPらしい言葉」というのはそれぞれで、宇宙に関することとか、「見つける/見つけてもらう」といった言葉とか、色んなBUMP観があると思うんだけど、個人的な「BUMPらしさ」は何かというと「お別れしたあとも心の中でそばにいること」についての歌詞が多いなと思う。バンドを代表する曲で自分が初めて聞いたBUMPの曲である「天体観測」にもそんな歌詞がある。「君の震える手を握れなかった痛みも」「そうして知った痛みが未だに僕を支えている」「『イマ』というほうき星 君と二人追いかけている」。もう会えない君の記憶を支えに生きる僕の歌(だと自分は解釈してる)。自分が天体観測を聞いてすごく好きな曲になったのは音楽的なものもあるけど、この切ないけれど「心の中の君」を想って最後は少し前向きな歌詞が好きだったからからだ。初めて聞いたのがこの曲ということもあり、自分にとっての「BUMPらしい考え方」はここが源流になってると感じる。

もちろん、こういった歌詞は他の曲でも頻繁に登場していて、特に分かりやすいのはsupernovaの「本当の存在は居なくなってもここにいる」。また、友達の唄にも「そうかあなたはこんなに側に」「今 私が泣いていても あなたの記憶の中では どうかあなたと同じ笑顔で きっと思い出してね」といった歌詞がある。これは歌っている側が記憶に残ってほしいという歌詞になるかな。他にもロストマン「時間はあの日から止まったままなんだ」「君を忘れたこの世界を愛せた時は会いに行くよ」、サザンクロス「さよならを言った場所には君の声がずっと輝くんだ」「くしゃみひとつで取り戻せるよ 離れても側にいる 気でいるよ」、You were here「まぶたの裏に光の記憶」「そこから伸びた時間の上を歩くよ 全て越えて会いに行くよ」、邂逅「あなたに穿たれた心の穴が あなたのいない未来を生きろと謳う」「さよなら その先に 揺れるこの道」。これらの曲も「お別れのその先」を歌っている。そしてpinkieはまさに「未来のあなたが笑ってないなら歌いかける今に気づいて欲しい」という歌詞があり(これめっちゃキミプリ映画だと思う)、クロノスタシスにも「秒針の止まった記憶の中」「鮮明に繰り返す 君の声が」という、「心の中の君」を思わせるフレーズがある。思いつくだけでもこのくらいあった。

具体例を色々言いたくて乱雑に歌詞を挙げるだけになってしまったけど、とにかく言いたいのは、自分にとってこの映画をみたことが、BUMPが発してくれていたメッセージに再び気づくきっかけになったということだ。もう居ない君。もう会えない大好きな人。もう戻らない楽しかった時間。だけど「心は覚えている」、心の中で思い出せば何度だってまた会える。それは自分がBUMPからずっと受け取ってきていたメッセージであり、気づかないうちに心の支柱になっていた考え方だった。先ほど述べた通り自分は大好きだったものから離れてしまった時、とにかくBUMPを聴きまくっていて、特に「お別れ」の歌が好きで、morning glowの「あんなに夢中で追いかけたのが 嘘みたいだけど本当の今 大切にしてきたけど実はただ そう思い込んでいただけ」といった詞にめちゃくちゃ痺れていた。その時は「お別れ」のことしか意識していなかったけど、BUMPはいつもどの曲でも「お別れのその先」のことまで歌ってくれていて、それは無意識のうちに自分の心に刷り込まれていた。「心の中で、また会える」「音楽や記憶は心の中にいて、君の人生について行く」と、何度も何度もBUMPは言ってくれていた。だから、キミプリ映画の考え方がスッと自然に受け入れられたのだと思う。空っぽ人間になってしまった時、縋るようにBUMPを聴いてきたことが、知らないうちに布石になっていたのだ。「誰に言ってもらいたい 無駄なんかないよって」という、morning glowの詞が思い出される。全ては繋がっていて、何一つ無駄なんかなかった。あの時、すごく辛かったけど、辛いからこそ聴いていたBUMPのおかげで今、この映画を受け入れることができた。大好きだったあのキャラ、楽しかった思い出にもう一度出会えた。大好きなキャラのことを、初めて「推し」と呼んでみようと思えた。

自分は今まで、推しとかそういう概念を否定的な気持ちで捉えていた。好きなものがあったって、どうせ最後はお別れして、悲しくなるだけだと思っていたからだ。だけどこれからは、好きなキャラクターのことを、「推し」と呼んでみたいと思った。それは勇気だ。好きになって、もしお別れしても、BUMPとこの映画のことを思い出せば、きっと乗り越えられるという自信が生まれたから。そして自分が誰かを「推し」と呼ぶその瞬間、心の中にはいつもアイドルプリキュア達がいて、「推し」というワンフレーズを手がかりにして、いつでも、あの映画館の中で光を見た、心動かされた記憶を取り戻せるからだ。BUMPの音楽を聴けば、いつでもライブの記憶を取り戻せるのと同じように。BUMPと自分が音楽で繋がっているのと同じように。「推し」という言葉が、それを書いたり口に出したりすることが、アイドルプリキュア達と自分が繋がっていることを思い出させてくれるからだ。

「大丈夫だ この光の始まりには 君がいる」──ray / BUMP OF CHICKEN

ただ、BUMPのことは推しとは呼ばないと思う。彼らはロックバンドなので。アイドルやキャラクターとは違う。だけど、自分にとって大切な存在であることには変わりない。今日新曲フル聴いた。すごく良かった。新しい曲が「いつもの曲」に変わるまでの期間をまたしばらく楽しみたいと思う。

「推し活」については、「〇〇活」という言葉はあまり好きではないし、自分は(ここまで書いてきた文章を読んでもらえれば分かると思うけど)、ほんとに「それが好きな自分が好き」ってだけの人間だから、自分のする推し活なんてごっこ遊びにしかならないと思うけど、まあ、「推し活ごっこ」なら許されるかな。と思う。本当に心の底から何かを好きになれる人のことはやっぱり羨ましい。好きなものについて語ろうとしたって、すぐ自分語りばっかりするもんな。でも、そういう人間だから仕方がない。「推し」という呼び方はこれからするけど、自分のことはオタクだとかは全く思わない。オタク、すごい。かっこいい。眩しい。自分はきっとなれない。だから好きなんだ。

えっと、最後にキミプリ映画主題歌の「♪HiBiKi Au Uta♪」について。最近フルバージョンが配信されたので聴いてますが、やっぱり、すごく良い。映画の内容そのものが歌になっているという感じで、この曲を聴けばいつでも映画のことを思い出せるなって思う。映画館では「目を伏せたってもれる光」この一言で一気に掴まれた。「いまここでキミが背中を向けても 何度も何度でも笑いかける」「喜ぶキミを見ると嬉しくなる」なんて健気な歌詞だろうか。「100年 1000年 時を超えても 心は覚えている 未来に響いてるよ」ここはまさに映画のテーマそのものの歌詞で、自分が一番好きな部分だ。そしてフルが配信されて初めて聴いた2番の歌詞なんだけど、「もしキミが誰も信じられなくて 瞳を閉じても忘れないで ここにいるよ、そばにいるよ キミを想ってる」ここを聴いた時に自分はBUMPのトーチを思い出した。「出せない悲鳴が真夜中騒いで 四角い部屋で迷子になったら 呼びかけて欲しい 僕の中 君のいた場所から」。♪HiBiKi Au Uta♪は心の中からキミへ向けて歌い、トーチは心の中の君に向けて歌っている。やっぱりBUMPとの親和性高いな……って思った(すごく個人の感想です)。こんなこと言ったらやっぱり傲慢かもしれないけど、♪HiBiKi Au Uta♪は自分に向けて歌ってもらえていると思うとすごく刺さる歌です。その理由は映画を好きになったのと同じだけど、そう簡単に何度も見れるものではない映画と違って、容易に繰り返し聴くことのできる音楽でも映画と同じ気持ちを体験できるのはとてもありがたいなと思う。映画そのものといえるこの曲にはたくさんの勇気と光をもらった。きっとこれからも好きな曲であり続けると思う。

2025年前半はひたすら漫画を描き続けていたけど、ある日自分が昔愛用していたとあるインターネットサービスが終了すると知り、気持ちが揺らいでしまい、漫画は一時中断してしまった。自分が自分を肯定できるのは創作を続けていたからで、それが無くなってしまったらまた気持ちが落ちてしまうかもしれないと心配だった。でも、いざ止めてみたら頑張ったご褒美と言わんばかりの幸せが待っていた。その中の一つはこのプリキュア映画に出会えたことだ。自分が創作をしていた理由の一つには「他者からしか得られないコンテンツのことで一喜一憂したくないから」というのがあり、完全オリジナルで自分だけの世界を作って、その中だけで楽しめたらそれが心の安寧に繋がると思っていた。実際、自分の思うままに好きを表現するのは楽しかった。でも今回この映画を見て、「推し」という概念を受け入れられるようになった今、「他者から得られるコンテンツ」にもう少し心を預けてみるのも悪くないかもしれないと思った。自分が何かを好きだと思う気持ちを、もう少し信じてみてもいいかもしれないと思った。ので、今年後半は一次創作は少し休んで、推し活……(ごっこだけど)をちょっとやってみたい。というわけでプリキュア関連ではショーを見に行ったり映画見まくったり、もうすぐライブの配信もあるので楽しみにしているのだけど。実はこれから自分の中で、他の好きなコンテンツに関することで、すごく大きなことが起こる。それは明日、そして今冬に迫っている。ここでは明言しないけど、それに向かう今、この2025年の10月。プリキュアのことをたくさん考えながら過ごせてよかったなと思っている。本当に今年の映画には元気をもらえた。プリキュアという枠を超えて、自分が好きなことを好きだと思うための勇気をもらえた。大好きだったあのキャラクターを、「推し」と呼べるようになるくらいの力をくれた。本当に本当に、ありがとう。例え映画館で見ることができなくなっても、1年経って、今のシリーズが終わってしまったとしても、ずっと覚えている。心の中に居続けてくれる。「かつての推し」が、BUMPが、そうだったように。

キミプリ映画、いつ終わるか分かんないので、もしここまで読んでくれた人がいたら、少しでも気になったら、ぜひ映画館で見てみてください。もし未来の人が読んでくれてて、とっくの昔に終わっちゃってたらBlu-rayとか配信とか出てるはずなので。絶対見ろ! とかは言わないけど、少しでも気になったら、ぜひ。とても面白いよ!

あーなんかまとまりがない! 締めが思いつかないので終わりです

映画主題歌です ぜひ↓

これは自分がBUMPで一番好きな曲です ぜひ↓

@zitensya
全人類からブロックされた人「今日のインターネットはしずかだなあ~~~~~~」